- 大橋しん
アフガン・ストールで動く心情、なにも知らない日本人
11月のライプツィヒ、寒くなるとイスラムのシャール(襟巻き)、日本でアフガン・ストールと言われるチェック柄の布を巻いている若い子がちらほら見られます。
ビンラディンが頭に巻いているもの、と言えばすぐ分かるでしょうか。ざっくり首に巻いてパンクな格好をしているドイツの若者はカッコよく見えます。
どこで売っているか聞くと、革ジャンやロック・バンドの柄のTシャツが売っているお店を紹介され、買いに行きました。
お店に入るとハードロックが流れ、そういえばドイツと言えばメタル、ジャーマンメタル。スコーピオンズとかそうだったと思い出しました。
お店にいる男の子らもハードな格好。反体制の象徴がロックで、911以降、それにテロリストを思い起こすアフガン・ストールがそれに加わった、というわけです。
チェ・ゲバラと一緒、アナーキストが好むモチーフです。
赤と黒があり、迷わず黒を買って巻いてみると、僕もちょっと社会からはみ出した気分になっていい感じです。
911以降、早くもアメリカの標的はイラク・イスラムに定めましたが戦争は2年後。
それ以前でも何となく世間はイスラムに警戒心を持ってきていましたが、ドイツの報道ではアメリカン・パワーもテロリズム同様、邪悪な存在に位置付けされていました。
イスラムの子が周りに多い僕は、アフガンストールを巻いていると喜んで僕を迎えてくれます。
「シンはアラブの味方だろ?」
「これは何にでも使える布でね、物を包んで運んだり…」
といったように、たった一つのアイテムで親近感がここまで得られるのが不思議ですが気分はいいので、どこに行くにもその襟巻きをしていました。
ある日、語学交換パートナーのアンヤと待ち合わせ、それを巻いていくと明らかに嫌悪しています。
美しいブロンドの彼女は普段ニコニコしているのですが、ケバップを食べる人を嫌ったり、当時の首相シュローダー(今の政権よりオープンスタイルだった)を批判したり急にナーバスになる時がありました。
彼女は外国人排斥運動に賛同するところがあるのです。
でも僕と過ごしてくれるのはなぜか、というと、日本人は無害だから。トルコ人はダメ、ドイツから出ていってほしい。トルコ人と同じイスラマーもあまりいい感情を持っていない。
「だからあなたがトルコ・マーケットに行くのもよく思わないし、その襟巻きも」
彼女の中で人種差別をしている感覚はなさそうでした。ドイツの経済バランスが狂うから、ドイツを守るのに当然のことを言っている、という感じでした。
無邪気にドゥカティのバイクに跨る気さくな女の子なのに、イスラム人のこととなると彼女の言葉の端々には鋭さがこもっていきます。
「分かった、もうこれは巻かないよ」
といって僕はストールを外し、アンヤと会う時は気をつけようと思うのでした。
ドイツにいると人種の違いや国の対立に日常的に出くわします。
モンゴル人のドゥーはロシア語と中国語を話せますが、ロシア人とは話しても中国人とは決して話しません。
中国から国境を超えて入植してきているから嫌い、と言います。
北キプロス人の生徒達に、別のクラスのあの娘もキプロス人だって、と僕が言っても決して交流をしません。
実はその娘は南キプロス人で、北と南は停戦中、北はギリシャ系でバックにイギリス、南はアラブ系のトルコ人で代理戦争をしていて、互いに許せないのです。
ロシア人の学生はドイツ語学校で数が多く恐れられています。聞くと地下パーティを仲間内でしていて、それが結構危ない事をしているらしいのです。
誘われても絶対に行くなとロシア語の話せるウクライナ人のサーシャに言われていました。
サーシャはロシア人生徒と喋りますが決して打ち解けません。ポーランド人生徒とも喋りますがロシア人に対するよりはオープンです。
ウクライナとポーランドは言語が似ており、かつカトリックと宗教も同じで、ロシア正教のロシアとは文化的な面で違います。
言語や宗教によって伝統的な習慣がかぶると馴染みの装飾や好みが共通したりして、そんな事が親近感の源になっているようです。
東京で沖縄の人と奄美大島の人が出会うと親近感が湧く、という感じでしょうか。
習慣が違うと相手の心情が分からなくなり親身になれないことがあります。
僕の先生、ブルース・ファートマンが著作で「相手にとって親切であるためには相手に興味を持つ事が必要だ」と書いています。
人って相手に対する興味があれば実は対立しないのですが、そんな簡単な事を人は成すことが難しいのが現状で、もちろん自分自身にもそれがあると思います。
アレクサンダー・テクニーク教師のトレーニングでは、知らないものごとに直面し、それが何かと評価する思考に入ったことに気付いたら、何が起こっているんだろう?と興味を持って見る方に切り替える訓練をします。
人は知らないものに出会うと、知っているものから推し量ろうとして「評価」してしまいがちですが、それが相手と距離を取ってしまう最初の一歩なのです。
距離を取ると、本当の意味で一緒にいることができません。
一緒にいてこそ、体験は共有されます。アレクサンダー・レッスンにはそれが必要で、教師には「相手と一緒にいる」能力が必要なのです。
ぼろぼろになったアフガン・ストールは12年後の結婚、引っ越しを期に捨ててしまいましたが、僕の中では異文化体験メモリアル・アイテムの一つです。