- 大橋しん
ルームメイトが来る
最終更新: 2020年8月25日
学生寮は二人一組で、キッチン・ダイニング、風呂・トイレは共有スペースです。僕はドイツ語学校に入学してしばらくルームメイトがいなかったので、一人気ままに共有部を使っていました。
ある日、寮長に「君のところにルームメイトが入るからね」と言われ、気楽な生活が終わるのでがっかり、しかしどんな子が来るのだろうという興味の入り混じった気持ちで、その日を迎えました。
「こんにちは!タリクといいます。よろしく」
と入ってきたのはイスラム系の背の低い真面目そうな男の子。
謙虚で品のよい感じに僕はすっかり安心して、料理するにも譲り合いながらで生活は気楽さを失われずにありがたく思っていました。
タリクはヨルダンから来たシステム・エンジニア志望の留学生。日本にもクラスに一人はいそうな、損なくらい実直なキャラで、時折ダイニングでお国の事を話し合いながら過ごし、すっかり親近感が湧く間柄になりました。
ところが…。
あれ?いつの間にか牛乳が減っていて、そんなに使ってたかな?と思うとシャンプーも、あれ?おかしいな、こんなに減っている…。
気付いたときには、あらゆるものが早く消費されていっている!
こっそりボトルにラインを引いておいて減り方を見ると、間違いありません。
さてどうしよう。
あんなに真面目そうなタリクが、分からないわけがないくらい僕の物を使って、普段は平気な顔をしている…。
僕はあまり変化球を投げられないタチなので、思い切って聞いてみました。
「あの、タリク。僕のもの使っているよね?」
「何が?」
「食べ物やシャンプーなんか消耗品。何か困っているんだったら分けられるものは分けるから、使うときは言ってよ」
「どれがオマエのものだって?」
??
僕が冷蔵庫を開けて見せようと手を伸ばした時、がっしりと腕を掴まれました。
その手の掴む力の強さにぎょっとして、相手の顔を見ると怒りで硬直しています。
しかし、僕もここで引き下がるわけにもいかず相手の顔をじっと見ました。
しばらくお互いに沈黙していましたが、向こうが手を離して自室に向かい扉を閉めてしまいました。
一旦その場は終わってほっとしましたが、未消化のままお互いに会わないような生活になってしまいました。
彼の怒り方は、僕が侮辱を与えたような感じでした。
僕は僕でフェアな行動を取ったつもりだし、彼の怒りは理不尽なものだとしか思えません。
イスラムの生徒たちが消耗品をシェアし合いながら共同生活していることは知っていました。
彼らの基本スタンスは、持っている者からは遠慮なくもらってもよい、なのかな?そう推測しました。
1週間ほど経って、タリクがいるところを掴まえ、僕は日本人であっても余裕があるほど持っている者ではなく、切り詰めてドイツに滞在しているから何でも分け与えられるというわけではない、必要だったら使ってもいいか聞いてくれ、と言いました。
すると、タリクは悪かった、もうしない、と言い、その場で緊張を解くことができました。そしてその後は何もありませんでした。
ずっと後になって他の日本人留学生と話した時、
「そう、俺のイスラムのルームメイトも、おはようとか言いながら冷蔵庫からおもむろに俺の水ゴクゴク飲むんだよ、ラッパで。それで平然と面と向かって話してんだから、もう注意する気も起こらない」
どうも常識の感覚が随分違うのですっかり頭を切り替えるしかないな、と当時は思いました。似たような経験をしている日本人が他にいる事だし、そんなものかと。
しかし同時に、日本人は世界でも稀に見るくらい、明らかに裕福で安全で恵まれた社会で生まれ育ち、その割に絶えず節約志向で分け与えることに消極的であるとも思えてきました。
自分だって振り返ってみるとそういう傾向が強く、彼らの感覚と比べると何かと発想がケチ臭いように思うのです。
お金や時間、権利、分配、責任、これらに対する日本人のスタンスはある意味「セコい」の一言。おおらかさにかけ、柔軟な思考を持てない。
そしてルールを犯す相手には責める権利を遺憾なく発揮できるのを念頭に、抑制し合ってそこそこ安定した関係を保てている。
これが日本文化では「気遣い」や「思いやり」という名前があって、私達にはそれが美しかったり責務だったり当然だったりするのですが、別の文化ではそうとは限らないのかもしれない。
タリクには僕の態度は怒りを感じるほど納得いかなかったものだったし、個人の事情が分かれば配慮できるとしても、やはりケチくさい人として非常識なルームメイトだったのでしょう。
イスラムの人だからか、アラブの文化だからか結局分かりませんでしたが、タリクは僕の不寛容さに不当さを感じていたように思います。
不寛容さ、これは日本文化の性質の一つで、自分が知らないうちに持つ性質。
これはトゲのように深く刺さり、事あるごとに僕に考えさせる事になりました。