- 大橋しん
最初にアレクサンダー・テクニークと聞いたとき(3)
最終更新: 2020年8月25日
ノリコさんは日本の大学から奨学金を受けてドイツに来たそうですが、当時ワイマールは共産圏で、誰もが止めに入ったそうです。
それでも決断した理由までは語りませんでしたが、まだソビエト連邦がある時代で共産圏にわざわざ留学するのも、その頃の共産圏の音楽レベルには未知数のものがあり、ある種の魅力があったのかもしれません。
その頃の印象は、まず街灯がなく町は暗く、大人は不機嫌そうだった。買えるものが限られていたり、ストが頻繁に起こりインフラは不安定だった。
子どもたちは小さい頃から哲学を論じたり、クラシック音楽の内容について突っ込んだ意見があって議論したり、他の分野ででもおしなべて早熟であったとのことでした。
よく物は盗まれたけれど、重犯罪は今より少なかったそうです。
ノリコさんは特に苦労話をしませんでしたが、大変な生活だったのが容易に想像できました。
日本人の学生が歴史ある歌劇場の専属ソプラノ歌手にまで登りつめた、その努力までは想像できませんが…。
ノリコさんはひと通り話し終えて、僕にあと何が必要かを尋ねました。
僕は自転車を手に入れたいことと、スーパーと薬局の場所と答え、あとドイツ語を習う講座はないかと尋ねました。
大学関連の施設の講座に何かあるかもしれない、その場所はまた行きましょう。と、そして、
「そこでやっているアレクサンダー・テクニークのレッスンを受けようと思っているの。歳を重ねると、発声に衰えが出てきているのが気になって」
アレクサンダー・テクニーク?
なんじゃそりゃ?
僕が初めてアレクサンダー・テクニークの名前を聞いたのは、その時でした。