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​生活/ライフ その他

目次

​・自由とは

​・老いてユニークは極まる(テキスト

​・らしさとスタイルの違い(テキスト

​・自分の​願望と理不尽な腹立ち(テキスト

​・空間から与えられるもの(テキスト

​・思考にストレッチをかける(テキスト

・違うと感じるのなら必ず原因がある(テキスト

自由とは

​(読了目安:1分)

 

10年程前にアメリカ、ニューメキシコ州に行ってアレクサンダー・テクニークのブルース・ファートマン先生の所に滞在しました。

 

ゴーストランチという岩場で毎日のように山登りをして道中いろいろなおしゃべりをしました。

 

その中で特に印象に残ったものがこの「自由」についてのものでシェアしたいと思います。

 

宙に浮いた岩は

 

一見自由に見えるけれど

 

孤独で束縛されているようでもある

 

 

 

進む道が決まっていて

 

未知の険しさに歩みをためらったとしても

 

後ろから風にそっと背中を押され

 

飛び立つような自由を感じる時もある

 

 

 

蜘蛛は何もないところに

 

ひとつの糸を張って自分の道をつくり

 

いくつもの糸を繋げて

 

自分が自由に動けるようにする

 

 

 

今のあなたはどんな状況で、何を自由と感じますか?

 

他の人が言う自由は、あなたと同じですか?

 

あなたは、気がつけばいつでも自由を感じられる可能性を秘めています。

​どんな困難な時でさえ。この詩はそれを教えてくれます。

 

老いてユニークは極まる

​(読了目安:2分)

僕は子供の頃からユニークな存在に魅了されてきました。

 

そして十代になるとユニークな振る舞いをしたくてしょうがなかった。

 

今大人になって、世間の大人を見ると、誰もがある種のユニークさを持っている事に気づきます。

 

子供の頃、ユニークさを持ちたかったのは、大人になりたかった事の変形だと思い至ります。

 

その頃は大人になりたいという願望を認めたくなくて、ユニークでいたい、ということにしていたというわけ。

 

 

仕事の都合、終齢を迎えた方々と接しますが、ご高齢ともなるともうユニークの塊!

 

ここでのユニークはあくまで愛情を持って言っておりますが、本当に誰もが「極まって」います。

 

それで僕は「個性的になること」と「齢を重ねること」は同一のものであるという考えにたどり着いています。

 

 

僕自身は年令を重ね、機能が衰え、やがて朽ちていくことに怖さがない、というか関心が向かないのですが、その代わり、「どんなユニークな年寄りになるのか」にとても興味を持っています。

 

自分がどうなるか、なんてコントロールが効きそうで実は全然そうじゃないのですが、いずれ持つ自分の「ユニークさ」には自分なりの責任を持ちたいな、と思っています。

 

 

「老い」を個性を極めることに置き換えてみると、世の中を見る目線がちょっと優しくなるのを感じます。

 

あなたは「老い」を怖がっていますか?それとも楽しみますか?

 

絶対に来るんですよ?

 

どうせなら…。

 

らしさとスタイルの違い

​(読了目安:2分)

これが私のスタイルなの!

 

という言葉に、どのような印象を持たれますか?

 

また、私らしさと、私のスタイルはどう違うか?

 

これらは混同されていることが多いのですが、ふとした時にこの混同が大きな障壁になったりします。

 

問題を感じ、変化が必要なときに。

 

 

スタイル、例えば体型としてのスタイルだったら維持するのは大変だったりします。

 

一方、「らしさ」は自分の意志に関わらずにじみ出てしまうもの。

 

世界(自分以外)に表現されていることでは一緒ですが、見返してみると元々が大違いなのがわかると思います。

 

 

スタイルは「こだわり」で維持し、エネルギーが必要。

 

「らしさ」は自然のもので、エネルギーもコストもかかりません。

 

むしろ「らしさ」は「こだわり」を手放すことで自然と滲み出てきます。

 

どちらにどのような価値を見出し、どう扱いたいと思いますか?

 

もちろんどちらも、それなりの役割があるのですが…。

 

僕は変化を求めて訪ねてきた人に、これらを整頓をするよう提案したりします。

 

カギは自分の「こだわり」をどう扱うか、ですと。

 

 

魚拓やメダル、目に見える成果って飾っておきたくなるのが人情。

成果は見方を変えれば執着です。

執着って本能かな?て思ってましたが、僕の子供を見ていて、違うな、と思うようになりました。

うちのある一つの木箱には折り紙から紙で作った造形物でいっぱいになっています。

6歳の子供に「作ったものはここに入れること」としている箱なんですが、作ったときの達成感と見合わないくらい見返したりしません。

それを見ていると人は本来物事に執着しないのが素(す)ではないかと思います。

 

一方、大人はベストなものを保存したがります。

それを狙って発達したのがインスタでしょうけど、もう欲望のるつぼみたいになってますね…。

執着です。その瞬間は「これだ!」。

実は迷いがあるのにそれに捉えられるのが苦しくてそうするのだと思います。

武道武術では「これだ!」の後には必ず「あれ?」が来ます。

 

 

武道武術までしなくても、例えば姿勢。

姿勢ってみんな正しいところでキープしたいので、まずピーク・パフォーマンスを知りたがります。

正しさを求める。そしてそれに執着してしまう。

 

この欲求が本能から来ているか?

違うと思います。

この思考は幼い子供にありませんから。

捨てられる思考です。

正しいところでキープ!

まずそれを捨ててみませんか?

馬と会話する

(読了目安:2分)

僕のリハビリはマッサージもストレッチも筋トレもありませんが、可能性がある人は状態が次第に良くなっていきます。

 

僕は思考を超えて筋肉と交渉している感じがあります。

 

筋肉には野生が宿っているのが分かります。

 

というより、人に眠る野生を筋肉から知ることができます。

 

筋肉にしか表現が許されていないから、コミュニケーションはそこから、という感じです。

 

一切喋ることができなくなったとしても、内面を感じ取ることができます(その内容まではわかりませんが…)。

 

 

こんな話に何じゃそりゃ?てなる人は多いでしょうから、引き合いに乗馬を出しましょう。

 

 

僕は長野に行って馬で公道を走りました。

 

4日のレッスンの間で、ある馬とはウマがあったから、それができました。

 

言葉によるやり取りはできないので、相手とは動きで互いの存在を受け入れました。

 

筋肉で交渉したようなものです。

 

ある提案に対して拒絶するものもあれば、試してみたり、好んでしてくれることがあったり。

 

それらは思考を超えて、動きで互いを知るという体験でした。

 

 

これは僕が特別な能力を持っているわけではなく、犬を引くリードによってその子の機嫌が分かったりするのと同じです。

 

誰でも動きから相手の野生を知ることはできると思います。

 

僕はそれをリハビリにも太極拳の指導にも応用しています。

 

 

最近はその使い方を教えることもできるようになってきています。

 

これらを中継してくれているのが「アレクサンダー・テクニーク」なのです。

 

別に奥深くありません。取り組んでいるのは自然なことです。

 

頭が、ややこしくしているだけです。

 

自分の願望と理不尽な腹立ち

 

 

自分の願いを相手に叶えてもらう。

 

どう考えても自分勝手で無理があることを、実際にしてしまうのが私達です。

 

何かに腹を立てる原因になるこの考え、というかこの習慣的な思考パターンは、しょっちゅう私達の生活にストレスをもたらします。

 

少し冷静になって、「自分の願いは自分で何とかする。できなければお願いする。断られたら諦める」というプロセスをたどれば、誰の何にも責める要素がありません。

 

アレクサンダー・テクニークのレッスンで「こだわりがなくなり、些細なことに腹が立たなくなった」と言われる方は多いですし、それが筋緊張にまつわることであることも、次第にわかってくるものです。

 

 

一般的には、感情は心理的・精神的なものでくくられて語られていることが多いですが、僕は感情は体のリアクションだと思っています。

 

感情は体のことです。

 

言葉のない動物の様子から、嬉しいとか怖いとか感情があることがわかるのが、そう考える理由です。

 

そして思考であらためて意味付けをしていると思います。

 

 

誰かがあなたのために動いてくれなかったら、その時自分の体がどうなっているか気づいてみてください。

 

こわばりに気づいたら、それを手放して、あらためて自分の考えに目を向けていると、意外にもまったく違った心情になったりしています。

 

こんなに簡単にトラブルが回避できるなら使わない手はありませんよね。試してください。

 

空間から与えられるもの

僕の通っていたトレーニング校が、ドイツのアレクサンダー講師の講座をお世話することがありました。

 

失礼がないように、お世話のチームは会議所で、絨毯敷きの大きな部屋を用意しました。

 

講座を終えて、その講師に部屋はどうだった?と尋ねました。

 

 

 

「いったいあの部屋はどこがよくて選んだの?」

 

 

 

みんなキョトンとしてしまったそうです。

 

僕はその場にいなかったのですが、その話を聞いて、何のことを言ったのか見当がつきました。

 

 

私達日本人の普通の感覚で講座に選ぶ部屋は、大抵会議室。

 

白い壁、クリーム色のパーテーション、石膏ボードの天井、開けられない窓ガラス。

 

そこにいるだけでワクワクする、とは思えない環境です。

 

 

僕は以前、自分のアメリカの先生を紹介して回っていたのですが、レンタル・スペースを検索してもそんな部屋ばかり出てくるので、しまいには自分で足を運んで探して回ったりして、六甲山に登ったり長野まで行ったりしました。

 

アメリカの先生もドイツの先生も、環境にこだわるからです。

 

音であっても、騒音だけでなく足音から床を気にしたり、壁の反射音が人の声とマッチしているか、冬にみんなが厚着してきても声が通る部屋なのか等、仔細に気を配ります。

 

それもすべて受講生のために。

 

 

 

どこにいるか。自分を取り巻く環境に、日本人はとりわけ疎いように思います。

 

というか、茶室や昔の和室を見るとそうでもない。日本だから、日本人だからというわけでもないと思います。

 

多文化の取り入れが、戦後だったからなのか、節操がなかったか、経済優先だったのか、実用優先だったのか、表面的だったのか。

 

今、自分を取り囲む環境が何でつくられた、どんなスペースだったか目を向けるのにとても疎くなっているな、と思います。

 

 

このことを思い出したのは、あるクライアントさんが

 

「あなたの教室、和室なのね。とっても落ち着く。子供の頃の気持ちになる」

 

と言われたからです。

 

 

実は、僕はちょっと前までスタジオって、つるっとして硬質な環境がそれっぽくて、自分の所は家庭環境みたいではずかしいかな…?と思っていました。

 

うちのレッスン・スペースは、麻のシェードを窓に引いた2つ通しの畳間なのです。

 

ピアノだけが置いてあって、必要なら治療台を出す。すっごいシンプルです。

 

ここで布団敷いて寝てるってすぐ分かる。でも、いいって言ってくれる人がいて嬉しいです。

 

 

自然とそういう部屋になったのですが、無意識で今までの経験から成っていったように思います。

 

オブジェをなぜ、ここに置くかも次第に気を向けるようになって、デザイナーやスタイリストがどういった視点を持っているのかも気がつくようになりました。

 

リラックスするって、空間がとっても関係していますね!だからこだわるというより、気を配る、という感じで空間をセッティングしています。

思考にストレッチをかける

うちにはテレビがありません。

 

僕は11歳の頃、両親に

 

「もうテレビは見ない」

 

と言って、それ以降僕はテレビを見なくなりました。

 

そのかわりパソコンが普及し、スマホが普及していったので画面からは逃れられてはいませんが…。

 

11歳のとき何を思ったか。

 

テレビを見ている兄と妹の背中を見て笑い声を聞いて、

 

「自分がこうだったらやだな」

 

と思ったからです。失礼な話ですが…。

 

 

これは僕の性格を反映していて、テレビに没頭する→楽しみに浸れるということがなく、リラックスするにも何となく周囲をうかがいながら、という感じなのです。

 

それが伝わっているのか、一対一で話すときも相手は何となく緊張感を持つ。

 

ある時、相手に「なんでそんなに黙るの?」と聞いたら、「オマエがお告げでも言いそうだからだ。なんか言うことが軽くない」

 

とのことでした。

 

重いか。

 

修行僧みたいな人、と言われたことも何度かあります。

 

別にそんなつもりはないのに。

 

 

僕がとても軽快にコミュニケーションを取れるのは外国人と高齢者です。

 

この方々とはリラックスしてしゃべることができます。なぜか。

 

僕が圧倒的に知らない側だから。

 

 

逆に同年代、同業者と立場が似通うほど緊張します。

 

なんとなく相手の身辺に起こっていることが想像できるから。

 

というふうに考えていけば、僕を刺激する対象がはっきりしてきます。

 

「相手」のことを主体に考え、起きていないこと、「未来」を予測する傾向にある。

 

思考にそういう癖があるのだと思います。

 

 

今ブログで20年前のドイツ滞在中の出来事を書いているのですが、これがけっこうトレーニングになっています。

 

「自分」の「過去」という、普段の思考の癖の逆を思い起こすことになるから。

 

思考にストレッチをかけている感じですね。

 

 

今僕がこうなりたいな、と思うのは、「一緒にいて安心する存在」。

 

相手がうっすらと緊張して黙ってしまうことを融かしたい。

 

失敗や恥ずかしさに目を向けてこなかった事が、このコントロール不可能な緊張と関係ある感じがしています。

 

自分の過去に目を向けるのがカギな気がして、実践しているところです。

 

 
 

違うと感じたら必ず原因がある

先日、雑貨店でインドネシアのキッチンマットを買いました。

 

アタ編みの楕円形のやつです。

 

よく見る形で、うちにも2つあるのですが子供が大きくなってきて、お揃いのサイズをひとつと思ったのです。

 

1500円。

 

買って帰って妻に見せると、見た目は同じだけどうちのは3000円のものだと。

 

並べてよく見ると、あれ、形はそっくりなのになにか違う…。

 

光沢が違う…でもニスのせいじゃない…編み込まれた素材をよく見ると…

 

あれ?うちにある方はアタの太さが揃っている!

 

新しく買った安い方は、素材の太さが微妙に違っていて、遠目で見ると目の揃いの不均等さがテカリ具合に反映されてザラついて見えるのです。

 

そのザラつきが、なにやら貧相な雰囲気を醸し出している。見れば見るほど、他の2つと違います。

 

 

妻はギャラリーに勤めていたことがあり、手工芸品をよく見てきたので、モノの違いが何となく分かるし、それが値段に反映されていることを知っています。

 

だから値段で決めてはいけない、とよく注意されるのですが、ずっと節約生活をしてきた僕はどうしても値段を気にしてしまいます。

 

でも、やはり何か違う、と思ったらそう感じた理由があり、納得できる背景が必ずあるのです。

 

セラピーの手もそう。

 

受け手がよいか悪いか、素人であっても「何か違う」のは感じているのです。

 

だからって自分でその違いが分かるのは難しいことで、より先を行く人に素直に聞くのが一番かな、と思います。

 

自分で原因がわからなければまず先人に倣う。大事ですね。