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教えと学び 子育て
子供の集中力と親の待つ力
子供の集中力と親の待つ能力には関係があると見ています。
うちの子は、よく「集中できる子だね」とか「この子は待てる子だね」と言われます。
確かに、他の子を見ていると、外部からの刺激や、(おそらく)頭の中の欲求に引っ張られて、
気持ちが始終あちこちに行っているように見えます。
また、集中といってもうちの子は没頭するわけでもなく、話しかけたら切り替えられるくらいコントロールが効いた集中の仕方です。
返事をしないくらいまで没頭していない。
なんでかな?別にうちは厳しいわけではないし。
で、他の親を見ていると、分かってくることがありました。
親が待てていないのです。
その子が何かをしているとき、頭がよそへ行っている。
親がちゃんと一緒にいてくれないので、やっていることに集中できない。
親がスマホ見ながら、見ているつもりでも「今ここ」に一緒にいない。不安になるんです。
フリでも、ダメです。子供にはちゃんと分かってしまう。
そしてその落ち着かない注意の振り分け方が、生存戦略になってしまっている。
僕が最低限子供にやっているのは、待つこと。
身体だけではなく、頭の中も。
ながらではなく、何かの間に仕方なく過ごすのではなく、
楽器を弾くように、ひとつのれっきとした行為として。
おそらく違いは、そこだと思います。
親のせいだって言いたいわけじゃありません。
子供の気があちこちに向くのは、環境適応の結果なのです。
そこには危険や不安、というものが関わっている。
子と親は、一緒にいるべき時期というものがあるのだと思います。
父親へ!13歳までは自分の時間はないと思え!
どこかのおばあちゃんが言ってました。佐藤初女さんだったかな?
13歳まで…。僕にだってキツく感じますけど、そういうものなんでしょう。
先ゆく人が先生
僕を導いてくれた先生たちはどんな人達か。
何かをスッキリ分からせてくれた人…
そんな人はいませんでした。
謎の谷に突き落とし、自分で這い上がってくるように。
そう言う人たちばかりでした。
と、いうのも、僕は分かってスッキリ!な発言をする人を先生と認知して来なかったから。
その人たちは、通りすがりの便利な情報提供先。
それ以上の存在ではありませんでした。
僕にとって「先生」とは、全力で一緒になぞ解きをしてくれる人。
ただ、自分よりずっと前から先生の方が先に進み始めていたので、自分が後を追いかけることになっただけ。
僕にとって先生とは、懸命に伝えようともがきながら表現をする人たち。
本人がもがきながら何とか表現しようとしているのだから、聞いているこっちがスッキリするわけないんですね。
あなたのためにそこまでエネルギーを割いてくれる人。
それが同じ方向に先行く人、先生、です。
優れる必要なんてない
自分がいつの間にか子の親で、教室を持っていて、技術の指導者になってしまいました。
親父が教員という教育者で、親父みたいになりたくないと思っていたのに。
一般的に教育者って、優れた人を育てる事に心血を注ぐように思います。
僕は自分の子供に、生徒さんたちに、別に優れようとしなくてもよいと伝えています。
そうではなく目標は素敵な人になってもらう事。
そのためには自分を好きになる必要があります。
僕は今まで自分の身体が好きだという人に出会った事がありません。
大抵はコンプレックスを持っている。
太かったり、シミがあったり、姿勢が悪かったり、痛みがあったり、顔の形が気に食わなかったり…。
そのコンプレックスを解消するために色んな先で対価を投じて、それに応じるサービスは、
「今より優れる(改善される)かどうか」
それらサービスは、今の自分に問題があることを直視させます。
今の自分が嫌いだということを。
僕はそれをしません。
それ故に僕の教育はそれらのサービスとは根本的に異なると思っています。
一方、子供にも、別に人より優れなくてもよい、と伝えています。
優れた人間の対極には、劣った人間がいます。
君がある分野で優れてくると、他の人のポジションを脅かす存在になるかもしれない。
しかし、君が素敵な人であっても、相手が素敵になる事を脅かしたりはしない。
それで、優れた人になるよりも素敵な人になる事を目指してほしいと伝えています。
同じく、僕の太極拳教室では生徒同士にコンプレックスが生じません。
素敵な人が増えていくばかりです。
僕はそう思っています。
理由は同じ。
僕が優れた生徒を育てようとしていないからです。
良い器を使うと丁寧な子に育つ
僕が最初に開いたスタジオは神戸の元町にありました。
そのスタジオは「トアロード・リビングス・ギャラリー」という工芸品などを扱うギャラリーの関連した場所で、同じ建物の中にありました。
ギャラリーのオーナーさんが使わせてくれていたのです。
そのギャラリーは特設展示会を定期的にしていて、知る人ぞ知る職人さんたちが出入りしていました。
僕は時間が空くとよくギャラリーに寄ってオーナーさんや職人さんたちとお話したりして過ごすことがありました。
ある時、漆職人の仁城義勝さんが来られていてお話しする機会がありました。
お話の中で僕に生まれたばかりの子供がいると聞くと、良い器を使うと丁寧な子に育ちますよ、と言われました。
僕は恥ずかしながらその時、「これら結構な値段の器を買ってもらいたいんだな」と勘繰って相槌を打つだけ打っていました。
それが、妻が「買おう」となって内心「えー!」と思いながらも結局好きにしてもらいました。
実は妻はそのギャラリーを手伝っていたことがあり、その時から結構な器を持っていて、僕と結婚してうちにそれらを持ってきていたのです。
さらに高尚な器が増えて、これらを日常使いするのには抵抗がありました。
何しろ洗うのもしまうのも慎重にしなければいけないので、僕は「面倒なことになったな」と思っていました(皿洗いは僕がすることが多いのです)。
さて、子供が3歳を過ぎると子ども園のみなし保育に参加できることになりました。
通っているうちに、うちの子が「丁寧にものを扱いますね」と園の方々から言われる事がしょっちゅうなのです。
見ていると確かにカスタネットを返却するとき、他の子が箱に投げ入れてガチャガチャしてても我が子は箱の底にそっと置いて戻ってくるのです。
そこでハッと気づいたのは、器の事です。
僕たち夫婦は、高価な器を日常的に使っているので、音を立てないようにゆっくりと丁寧に洗ったりしまったりしている。
それを子どもは普段から見ているので、それが普通になっている!
仁城さんの言われた通りだ。こういう事だったのか!
背中に電気が走りました。まさに知恵者の教えです。ギャラリーでの自分のケチな考えに恥じました。
そんなわけでうちでは今も結構な器を普段使いして、何より子供が丁寧に物を扱ってくれているので一生の財産を頂いたかな?と思いつつ、時には誤って割ったり欠けさせたりしてはショックで落ち込んだりしています。