記事

​ドイツ生活時代

目次

​・アレクサンダーテクニークを知らない頃

​・初めてアレクサンダーテクニークを耳にする(テキスト

​・ワイマールを徘徊する(テキスト

・海外モラトリアムに浸る(テキスト

​・三度続けて出会う(テキスト

​・アレクサンダーテクニークを初めて体験する(テキスト

・ライプツィヒに移る(テキスト

​・ライプツィヒの女神たち(テキスト

​・小地球のドイツ語教室(テキスト

・コーラを奢って後悔する(テキスト

​・無知ほど怖いものはなし(テキスト

​・ドイツのアレクサンダー・レッスン(テキスト

アレクサンダーテクニークを知らない頃

​(読了目安:2分)

こんにちは!大橋しんです。

 

僕がアレクサンダーテクニークとの出会いを、

ドイツ生活の思い出ばなしと共にしばらく書いていきますね!

 

僕が楽器をやっていた十代の終わりの頃、衝撃的なことがありました。

とっても楽器の上手な人と友人になったのです。僕との演奏レベルの差は三輪車とF1。

 

僕は当時今にも増して凡庸な、スポーツもしない奥手な男の子。

友人は家業の工務店を手伝っていて、ゴムまりみたいなむきぷよ体格でエネルギーに溢れ、

高くて大きな声でとにかくよくしゃべる。

その割にニオイを執拗に気にするなどかなりナイーブな側面を持っていました。

 

友人は僕の部屋に住み着いて、一緒に寝起きしてましたが、

一日中「どうやったらうまくいくんだろう」と考えているらしく、

いつでも唐突に「わかった!」と言って僕にひらめいたアイデアを語るのです。

内容はいつでも楽器の弾き方。

 

僕は今カウンセラーの資格を持っていますが、当時から根っからの聞き役で、

彼がどうしてそのアイデアに至ったのかを、

2時間も3時間もぶっ通してしゃべるのに付き合っていました。

 

友人は夜通ししゃべった後、いつの間にか寝てしまうんですが、

いびきがこれまたうるさくて、やれやれと思ったりしていました。

でも僕はその友人の溢れ出る探究心やエネルギーがうらやましく、断りもなく部屋に居候し続けるのにも関わらず、

特に嫌いもしないで半年ほど生活を共にしました。

 

一緒に楽器を弾き、CD屋で音源を探し(当時はネットはまだ普及していなかった)、弁当屋に通いました。

彼のアイデアは常に更新され、以前の考えに執着することがなく、いつでも大発見をした興奮をもって、僕に熱く語りました。

 

やがて友人は気に入った女性を追っかけて僕の部屋を離れる機会が増え、

やがてそちらに移っていき僕の生活は静かなものになりましたが、

僕の頭には彼の

 

「どうやったらうまくいくんだろう」

 

「分かった!」

 

が残ったのです。

 

初めてアレクサンダーテクニークを耳にする

(読了目安:5分)

ドイツで最初に住んだのはワイマールという小都市でした。

 

ワイマールって聞いたことありますか?大体はワイマール憲法を思い浮かべるのではないでしょうか?

 

僕もそうでした。そんな所に行くことになったのは、22歳のとき付き人をやっていたチェロの先生から

 

「君、退屈そうだよ。ものすごく上手い先生紹介してあげるからドイツ行ってきなよ」

 

と言われ、

 

「では行ってきます!」

 

とあっさり決めたからです。

 

当時、僕は「日本はダサい。日本人はもっとダサい。日本は世界の田舎」

 

と思っていました(今はそうではありません)。

 

海外ならどこでも行きたかったので、すぐに飛びつきました。

 

さあ、チェロケースの隙間に衣服を詰め込んで、あっさり出発!

 

今思うと、むこうの生活はどうなるとか、お金は足りるのかとか、どんなところだとか、何も調べずよくそんな事したかと思います。

 

でも、その時は急展開にワクワクしかなくて、何も考えずに移り住みました。

 

しかし、先生はあまりに軽率な僕にと、現地での世話人を案じたのです。

 

その世話人が、当時ワイマール州立歌劇場でソプラノ歌手のレギュラーであった、木村ノリコさんでした。

 

ノリコさんは駅で僕を迎えてくれた後、僕を車に乗せて学生生協に向かいました。

 

中央はずれのマンハイム通りの学生寮の客室を取っておいてくれたのです。

 

その客室は学生の家族が滞在するためのもので、こういった宿泊方法があると知ったのも後日。

 

ドイツは留学生を積極的に受け入れており、家族が遠方から来ることもよくあるので、このような設備があるのです。

 

1ヶ月300マルク(マルク!まだマルクだったときです)を支払い、鍵を受け取って寮に向かい、荷物を降ろしました。

 

1マルク60円だったので1万8千円ほど。キッチンがついていて自炊ですが安いのに驚きました。日本で普通に暮らすより安くない?

 

 

 

「眠くないのなら、起きていたほうがいいですよ。時差が早く回復するので」

 

とノリコさんが言うので、はーい、そのままお出かけへ。

 

ワイマール城へ向かいました。

 

ワイマールには城があり、今は美術館になっていますが、クラナッハやデューラーなどが展示されていました。

 

螺旋階段を登りながらアートの話をしつつ、ドイツへ来た実感がちょっとずす湧いてきました。

 

ひと通り見たあと、マルクト・プラッツのカフェへ。ノリコさんは有名人らしく、よく声をかけられます。

 

ノリコさんはまだドイツが統合されていない頃、東ドイツだったこのワイマールに一人で来た事を話して聞かせてくれました。

 

ノリコさんは日本の大学から奨学金を受けてドイツに来たそうですが、当時ワイマールは共産圏で、誰もが止めに入ったそうです。

 

それでも決断した理由までは語りませんでしたが、まだソビエト連邦がある時代で共産圏にわざわざ留学するのも、その頃の共産圏の音楽レベルには未知数のものがあり、ある種の魅力があったのかもしれません。

 

その頃の印象は、まず街灯がなく町は暗く、大人は不機嫌そうだった。買えるものが限られていたり、ストが頻繁に起こりインフラは不安定だった。

 

子どもたちは小さい頃から哲学を論じたり、クラシック音楽の内容について突っ込んだ意見があって議論したり、他の分野ででもおしなべて早熟であったとのことでした。

 

よく物は盗まれたけれど、重犯罪は今より少なかったそうです。

 

ノリコさんは特に苦労話をしませんでしたが、大変な生活だったのが容易に想像できました。

 

日本人の学生が歴史ある歌劇場の専属ソプラノ歌手にまで登りつめた、その努力までは想像できませんが…。

 

 

ノリコさんはひと通り話し終えて、僕にあと何が必要かを尋ねました。

 

僕は自転車を手に入れたいことと、スーパーと薬局の場所と答え、あとドイツ語を習う講座はないかと尋ねました。

 

大学関連の施設の講座に何かあるかもしれない、その場所はまた行きましょう。と、そして、

 

「そこでやっているアレクサンダー・テクニークのレッスンを受けようと思っているの。歳を重ねると、発声に衰えが出てきているのが気になって」

 

 

アレクサンダー·テクニーク?

 

なんじゃそりゃ?

 

 

僕が初めてアレクサンダー・テクニークの名前を聞いたのは、その時でした。

 

ワイマールを日々徘徊する

(読了目安:4分​)

飛び込みでドイツ生活を始めましたが、大阪の先生に紹介されたチェロの先生は、

リスト音楽大学の准教授に当たる新進気鋭の若手で、

僕がわざわざ日本からやってきたのをどう受け取ったかは分かりません。

 

とにかく僕は毎週リスト音楽大学に通い、彼の指導を受けながら、

残りの時間はワイマールをぶらぶらして過ごしました。

 

念願の日本脱出で新鮮な気分でした。

町をうろついてもドイツにはそこそこ外国人が流入していて、アジア人でも特に目立ちません。

誰もが僕を放っておく、という状況はとても気が楽でした。

 

自転車はドイツでは高価なもので(最低モデルで10万円)、

購入は諦め石畳の美しいワイマールをくまなく歩いて周り、

お店を覗いたり、

何かわからない軽食を試しに買って食べたり、

本屋で立ち読みしたりして過ごしました。

 

まもなく音楽大学の掲示板に気が付き、

ディプロマ(卒業証明)のために学生が無料でコンサートをしょっちゅう開いているのが分かったので、

片っぱしから聴いてまわりました。

 

学生と言っても音楽大学のレベルが高いので、

どの演奏もかなりの水準で、

それでも演奏家として生き残るのはかなり難しいと聴きましたが、

とにかく無料で浴びるほど演奏を聴ける日々を大いに楽しみました。

 

ワイマールは小さな田舎町なので、まもなく町なかを全部見て回ってしまい、

バスで郊外に出かけるようになりました。

 

町のはるか向こうの丘にずんぐりした塔があるのがずっと見えていて、

気になってきたのでノリコさんに何かと尋ねると、

 

「ブーヘンヴァルト。強制収容所があったの。」

 

と教えてくれました。

 

その途端、この町のいつも漂う重さ、小さな田舎町なのに、なんとなくピリっと感じてきた原因に触れた気がしました。

海外モラトリアムに浸る

​(読了目安:6分)

日本での生活でモヤモヤしていた僕の気持ちは、なぜかドイツでの孤独な生活で一気に晴れるという、よく分からない現象が起きました。

 

まず、誰も構おうとしないこと。強制的に加わらなければならないコミュニティがないという状況は、非常に開放的でした。

 

そして、向こうの言っていることがすぐに分からないことと、自分が最低限の表現しかしなくても生活できてしまうこと。

 

僕は明らかに「言葉」に左右されて生きてきたのだということを発見しました。

 

こういったことは、自分がそこに身を置かないと分からないことだと思うので、今どきの子らが、

 

「海外へ行くことに興味がない」

 

と自身満々に言うのは実に惜しいな~、と思っています。まあ人のことはいいか。

 

 

話は変わって、ドイツの物価は日本の半分ほどでした。

 

スーパーへ行って買い込んでも2000円くらいで1週間暮らせます。

 

家賃は1万8千円、食費1万円、バスは2000円くらいでひと月地域内フリー。

 

生活費は一ヶ月3万円。

 

あれ?神戸に住んでいたら家賃6万円、食費2万円、電車代は1万円、あと光熱費や通信費もろもろ…えーっと…。

 

何してるんだろ?日本で何してたんだろ?

 

 

ドイツで好きなだけモラトリアムできるんじゃない?

 

 

という考えが膨らみ、どうしたらこの生活が維持できるかを打算し始めたのでした。

 

一般的に海外モラトリアムと言うか分かりませんが、その手の発信で今有名なのがmanablogのマナブさんで、要は海外移住しそちらのインフラを利用しながら引きこもる(やりたいようにやる)という事です。

 

しかし僕はマナブさんのようにPCで仕事ができるわけでもありません。

 

僕の狙いは格安生活で、できるだけ高水準な教育(チェロの)を受け続け、誰にもジャマされずに練習する、というものでした。

 

日本にいると生きているだけでお金がかかるし、そのお金を作るために自分の時間を使わないといけない。

 

それは日本での「あたりまえ」を一回抜け出さないと気づかないことでした。

 

20年前はネットの情報交換も今ほど盛んではなく、僕はその可能性を探しに自分の足を使わなければなりませんでした。

 

そこでノリコさんに日本人留学生のコーヘイさんを紹介してもらい、彼の情報を頼りにドイツに在住するための準備にかかりました。

 

解決しないといけないのはビザと健康保険、あとそれなりの蓄え。

 

蓄えはあるものだけなので置いておいて、ビザと健康保険を得るのに最も簡単なのは学生になる、ということでした。

 

学生になる?

 

音大生になるのは数年単位の準備が必要だし、目的以上のエネルギーを費やすのは意味がないので却下。

 

ドイツ語学校。

 

大体のドイツの大学は留学生を積極的に受け入れているのですが、入学前にドイツ語がある程度できるのか、それを証明する試験をパスする必要があります。

 

リスト音楽大学に合格したコーヘイさんは、ドイツ語の試験で引っかかったため、別の町の寄宿型のドイツ語学校にまず入学し、試験が通るまで一時期そちらのほうにいた、とのことでした。

 

それだな。ドイツ語学校。

 

それも大学の関連機関は格安。なぜなら、ドイツの大学はすべて国立で、国の教育費は無料、大学の授業料は無料(!)なのです。

 

それを目指す留学生もお金はさほど持っていないのが前提なので、大学準備用のドイツ語学校も格安になるのです。

 

そして学生になれば格安の学生寮と健康保険、学生ビザが下ります。

 

いい国だ!

 

来るまで全然興味なかったのに!

 

というわけで、ドイツ語学校を探すことになったのです。

 

ワイマールの滞在はビザなしの3ヶ月が限度なので、長期滞在のために準備のし直しに一旦帰国することにしました。

 

今思うと何ともアバウトな行動ですね。20代前半、明日の宿もメシも考えず怖いものなしで行動できたのは振り返ってみてもどんな心境だったのか思い出せません。

 

ただ、未来に対して怖いものが一切なかったことだけは憶えています。

 

さて、学生寮を引き払う準備をしつつチェロの練習の合間に散歩。

 

ワイマールの景色はおそらくドイツの田舎の典型的なものでしょう。日本の田舎と全然違います。

 

まず、山が違う。というか山がない。というか山なのか丘なのか分からない。

 

日本の田舎は視界にほぼ必ず山があります。どの山も「あの山」と指させるくらいはっきりと平野と区別できます。

 

一方、ドイツはなだらかな丘がランダムに続き、山には見えない。その丘はみっちりと畑です。何の畑かは分からない。

 

自然の土地がない。調べてみると中世に開墾し尽くして、自然木などないんだそうです。

 

目に見える自然は基本、人の手が加えられている。そんな事考えたこともありませんでした。

 

ということは、ドイツ人にとって、広くはヨーロッパ人にとっての「自然」とは僕らとはかなり違うものかもしれない。

 

欧米の「ナチュラル」には、もう人の手にかかっている。ナチュラルには土臭さすらないのが前提。

 

 

そういったぼんやりした気づきは、やがて僕が後々着手する、人の中の野生を呼び戻すサポート活動と繋がっていったのかもしれません。

 

その軸は「アレクサンダー・テクニーク」という、妙な名前のものによって形成されてゆくのでした。

 

三度続けて出会う

​(読了時間:5分)

ワイマールにいた頃、隣の中堅都市ライプツィヒの大学がドイツ語学校を持っている、という情報を得ていたので、そちらの入学をオンラインで申請し、受け入れ通知が来ると同時に銀行やら歯医者やら長期滞在のための準備を進めました。

 

海外に長期滞在する場合、歯が痛いときに保険が使えないと大変なので、歯医者に行って治療をしておくのです。

 

ライプツィヒにはメンデルスゾーン音楽大学があり、そこでの繋がりがつくれないかと演奏家を当たっているうちに、ある声楽家の方とお会いしました。

 

そこで僕のドイツでの経験や考えていることなどを話していると、

 

「あなたが言っているみたいなことが最近買った本に書いてあったような…」

 

といって後日、一冊の本を持って来られました。その本のタイトルは

 

「音楽家ならだれでも知っておきたいからだのこと」

 

副題に

 

アレクサンダー·テクニークとボディ·マッピング

 

また出た!

 

なんだこれ?

 

こんな短期間に、何の繋がりもない3人からアレクサンダー・テクニークの名前を聞いたのです。別に世の中で話題になっている訳でもないのに…。

 

そしてその本を翻訳した教師が、すぐ近くの芦屋に住んでいることが、その本に書かれていました。

 

友人に連絡をしてその本を一緒に読み、芦屋の先生を訪ねようということになりました。

 
 

アレクサンダーテクニークを初めて体験する

​(読了時間:3分)

僕と友人は芦屋の小野ひとみ先生を訪ねました。本を読んですぐ小野先生がボディ・マッピングの講座をしていることが分かったからです。

 

ボディ・マッピングとは、アレクサンダー・テクニークが学習しやすいようにアレクサンダー教師のコナブル夫妻が考案したある種の考え方のツールで、アレクサンダー・テクニークそのものではありません。

 

当時はその事も分からないまま、アレクサンダー・テクニークじゃない?どうしよう?とか話しながら、結局参加することにしました。

 

 

ボディ・マッピングをざっくり説明すると、自分の身体についての思い込みを、事実に置き換えてみるものです。

 

例えばピアノを弾くとき、ある指の関節の認知が現実と違うと力がスムーズに伝達しないので、代償として余分な筋肉の緊張(りきみ)が起こります。

 

その誤った関節の認知を是正すると力の伝達がスムーズに起こるので力みは解消する、ということを取り組みとしたものです。

 

 

ボディ・マッピングは2020年の今でこそ色々な人が本を出して講座をしていますが

2001年当時はアレクサンダー教師の専売特許のようなものでした。

 

今思えば学習、というより情報、という感じでしたが、知らないことばかりだったし身体の動きや感覚に直接影響があるので、友人と感心して帰りに熱心に話し合いました。

 

しかし、僕らには「なんで今日のはアレクサンダー・テクニークじゃなかったんだろう?」という疑問が残りました。

 

帰りがけに小野さんからアレクサンダー・テクニークのレッスンの案内がありました。

 

2年後まで予約が埋まっているとのこと(!)でしたが、キャンセルがあれば体験はできるとのことでした。

 

友人とその後も何日かかけて話し合い、結局友人はこれ以上手を出さず、僕はキャンセル待ちを頼むことにしました。

 

 

ドイツにまた向かうまであと2週間、受けられないだろうな、と思っていました。

 

 

ドイツまで再出発秒読み、という所で小野先生のオフィスから連絡が入り、キャンセルが出たのでアレクサンダー・テクニークのレッスンを受けられる、とのことでした。

 

正体も価値も未だ分からずどうしようか迷いましたが、せっかくなので受けることにしました。

 

阪急芦屋川駅を降り、南へ下り小野先生のお宅に向かいます。二度目の訪問、大きな洋館で中にルネサンス調のチャンバーがあります。明らかに普通のお宅ではない。

 

その後分かったのですが、今よりもずっと前にアレクサンダー・テクニークの教師になろうとしたらそれなりの財力が必要で、小野先生が日本でいち早く認定教師になれたのもその辺りの事情があったのでしょう。

 

実はアレクサンダー・テクニークは今から40年以上前には日本に上陸していたのですが、ロジックが多少ややこしい上、手を出すにはお金がかかるということでなかなか広まらなかったとのこと。

 

 

さて、初めてのレッスンは体験、というべきものですが、詳細は割愛します。レッスン後、身体はフワフワ頭は混乱という状態で小野先生のお宅を後にしました。

 

お断りしておきますがこれは小野先生のせいではありません。この頭の混乱、というのは、単純に自分がこれほどまでに抽象概念と身体感覚を照らし合わせたことがなかったからです。

 

言葉を「こんなに、こうやって」身体のために使ったことがなかった、とでも言えばいいでしょうか。

 

至福と混乱で浮遊した自分を地面になんとか保ちながら、目前に迫った二回目のドイツ生活に向けて準備を進めるのでした。

 

ライプツィヒに移る

​(読了目安:2分)

青い空にビル2つ。一つは煙を上げていて、突然もう一つに飛行機が突っ込む。

 

2001年9月11日から連日、ニューヨーク・テロの映像が報道される中、

 

「ホントに行くの?」

 

と周りから言われながらも、それはこれ、変更の考えもなし、あっという間にドイツ行きの日がやってきました。

 

早朝から関西空港でぶらぶらしながら、のんびりと飛行機を待ち、ガイドブックに載っている次に住む街ライプツィヒの項目を読んだり、換金したりしていました。

 

前回は海外自体初めて、空港も飛行機もおぼつかなくて緊張していたのですが、今回は気楽です。

 

ライプツィヒ、そこにはメンデルスゾーン音楽大学があります。

 

ワイマールでのチェロの先生より、その大学出身の後輩チェリストを次の指導者として紹介してもらえることになっていました。

 

事前にライプツィヒを調べていると大体どの文献にも出てくるのは、この町の月曜デモがベルリンの壁撤去のきっかけを作りドイツ統一まで至らしめた、ということ。

 

ワイマールは強制収容所でライプツィヒは東西統一、どうもドイツにまつわるネタは政治動乱が真っ先で、あまり華やかな気分で訪れられないみたいです。

 

ライプツィヒはワイマールよりさらに東、旧東ドイツで二番目規模だった都市で、ちょっと足を伸ばすとドレスデンがあり、その向こうはもうチェコです。

 

その町にもやはり国立大学があり、名前はそのままストレートにライプツィヒ大学、東ドイツ時代は「カール·マルクス大学」と言いました。

 

僕の親父は学生紛争時代の京都の大学でマルクス経済学を専攻していたので、その大学の名前だけで何やら感慨深くなっていましたが、まあ自分には関係のないことで…。

 

ワイマール滞在中に、その町ゆかりの歴史人物をチェックするのはなかなか楽しく、ワイマールの代表格はゲーテ、フランツ·リスト、シラーなどで、あちこちにモニュメントやレリーフがありました。

 

今度のライプツィヒはなんといってもトーマス教会にいたバッハ、ワーグナーそしてゲヴァントハウス管弦楽団など音楽との関係が深く、またメンデルスゾーン音楽大学は滝廉太郎の留学先でもありました。

 

そのせっかくの音楽都市で、僕は音楽に見切りをつけることになります。

夜明け。ヨーロッパ随一のハブ空港、フランクフルトに到着しました。

 

前回は英語もおぼつかない状態で空港から中央駅へ、そしてワイマールへ一人でたどり着くのは大変でした。

 

今回は経験済みなので気楽です。ドイツの新幹線、ICEに乗り込み朝の様子を眺めながら3時間、ザクセン州へ入りライプツィヒ到着のアナウンスが。

 

ライプツィヒの中央駅は当時ヨーロッパ最大規模(後にどこかに抜かれた)。駅横のタワーマンション(この建物は後に飛び降り自殺が頻発するいわく付きのものだと知った)が遠くから見えてくると、周りが次第に廃墟化した工場に囲まれていき、まもなく終着しました。

 

この町はワイマールのような牧歌的な雰囲気とはガラッと変わって、暗くいかめしい印象です。

 

どんよりした雲空、すすで汚れた中央駅にはカラスの大群が。人も寡黙で暗い。

 

バットマンのゴッサムシティみたいだ。僕はそんな退廃的な感じは嫌いではなかったのでワクワクして、とりあえずインビスで軽食を買って、予約していたホテルに向かいました。

 

ドイツには自動販売機がほとんどありません。というかあってもほぼ間違いなく壊れていてお金を入れても商品が出てきません(お金も帰ってこない)。怪しい英語で怖い顔した売り子と対面して物を買うしかないので、ワイマールにいた最初の頃はかなり勇気がいりました。

 

しかしむっつりした表情のドイツ人でも案外気さくな人はいるし、この後も幾度も親切にしてもらうことになります。

 

ホテルのフロントマンはさすがに愛想はよく、とりあえず荷物と身体を落ち着けて、入学する手続きを済ませたヘルダー研究所ドイツ語学校を見に行ってみる事にしました。

ライプツィヒ中央駅の北側に5分ほど歩くと、ドイツ語学校、ヘルダー・インスティテュートがあります。

 

渡独後すぐに新入生の面談があり、初めて校内に入りました。

 

コンクリートの箱、青い鉄の扉、中小企業のオフィスみたいな感じです。そこでは様々な人種の入学生が面談を待っていて、アジア系もいるけど中国語が飛び交っていて、どうやら日本人はいないようです。

 

日本で著名なドイツ語学校はなんと言ってもゲーテ・ドイツ語学校(ドイツではゴエチェと発音する)。日本人はそちらに通うのが一般的です。

 

ゲーテは日本語対応完備と謳われてますがヘルダー・ドイツ語学校なんて日本ではほとんど知られておらず、そんな親切なサービスは皆無です。

 

まあそのくらいハードな方が自分のためだろう、と頭の中で自分を慰めながら待っていると、名前が呼ばれました。

 

部屋に入ると、3人ほどの女性が会議用机に並んでいました。

 

かんたんな英語で必要な書類と手続きの手順をガイドされましたが、向こうも忙しいらしく手早い説明でハイ次、みたいに内容を確認するまもなく部屋から出されてしまいました。

 

英語とドイツ語ミックスの書類…。どうやらこれを解読しないと住む場所も決まらないようです。

 

受け取ったものの中に学生証があります。書類によると、どうやらこれを使って、

 

外国人局で学生ビザ(仮)の発行

学生生協で学生寮を決定

住所が決まったら銀行で口座を開設

口座から引き落としできるようになるので学生用健康保険が組める

それが済んだら学校に通える

 

まで自分でやらなければならないようです。

 

 

え?自分でやるの?と日本でだったら言いそうですが…。

 

問答無用、何であろうがもう自分でやるしかありません。

 

まずは中央からやや東に離れた住宅街にある外国人局に向かいました。

 

 

住宅街なのにその外国人局の周囲には異様な空気が…建物からあふれるアラブ系と見られる人たちの不機嫌そうな様子に、ハッと気づきました。

 

ニューヨーク・テロの直後、ニュースではアメリカがアルカイダに復讐を誓っている真っ最中なのでした。

日本人が他者をどのように差別しているか、いかに差別的かは一旦外に出てみるとよく分かる、これは結構あちこちで言われていますが、僕も同感です。

 

僕はモラトリアム生活をエンジョイするためにドイツに来たのですが、アレクサンダー・テクニークとの出会いがあってもなくても、このドイツ滞在は僕の人生を相当変えたと思います。

 

その一つが「グローバリゼーション」、境界を超えた感覚や視点を持ったことが大きいと思います。

 

それは難しいことを考察したから、とかでは身につくものではなく、身を持って状況に晒されたからです。

 

 

あとあといろんな局面で知っていくことになるのですが、(当時)ライプツィヒはネオ・ナチズムの潮流の拠点の町の一つであり、滞在中、ネオナチの集会がある週末になると我々外国人は外出しないように学校から勧告を受けました。

 

僕の勘で飛び込む性質は、見事「常識ではわざわざ選ばない」町へ住むという大当たりのクジを引いてしまいました。このベタな醤油顔で!

 

 

外国人局とは外国人がドイツにこの先も住めるかどうか判定を下される場所。

 

ニューヨーク・テロをアルカイダが我々の聖戦と声明したことで、とんでもない数の何にも関係ない人たちが日常生活を脅かされることになったのを、僕はのこのこ外国人局で目の当たりにするのでした。

 

さて、そちらで声を掛けた人との出会いはまた思わぬところへ僕を連れてゆくのですが、それはまた今度。

 

ライプツィヒの女神たち

学生ビザ申請のために尋ねた外国人局は外にアラブ系の人々が溢れ出ていたのですが、脇を通り抜け一階のロビーへ。

 

ここの待合のベンチは既に埋まり、座れない人たちが部屋を埋め尽くして、掲示板に表示される番号を睨んだり、伏せたり喋ったりしていました。

 

殆どがアラブ系、そして黒人、東南アジア系、東欧スラブ系といった人たちが入り混じって、ビザか他の用かを待っているのです。

 

掲示板と案内を何とか判読し、学校からの案内のあった者の学生ビザの発給は2階に回る事が分かったので、群衆を気にせず奥の階段に進みました。

 

 

2階に上がると横並びのオフィスに、これもまた廊下に長蛇の列ができていました。

 

「今日中にビザは取れるのだろうか?」

 

「この人達は何の用で並んでいるんだろう?」

 

「ドイツで手続きするときはいつもこんな事になるのか?」

 

不安で頭がいっぱいになっていきます。

 

ひとつの部屋の前に案内人が立っていて、学生ビザの仮申請証をもらうように言われたと伝えるとこちらへ並べとひとつの列の最後尾を指定されました。

 

その列に並ぶと、列の折り返した向かいに菊の御紋の赤いパスポートが見えて、思わず

 

「日本の方ですか?」

 

と言うと、

 

「ゴメーン私この町すぐ出ていくので…」

 

という謎の返事に、僕はおそらく顔が???となったのでしょう。

 

声を掛けた人を見ると、美しい日本人の女性が、気まずい顔をしているのでした。

 

 

後に分かっていくのですが、ドイツにいる日本人女性は多少なりともフィジカルに整っていると人種関係なく異様にモテるのです。

 

この女性、ミキさんという方も始終ナンパされているので即断りが習慣ついており、僕がナンパで声掛けしてきたと思ったようでした。

 

さて、僕の顔を見返して彼女はおそらくナンパではなかったと分かり態度を改め、

 

「日本から来られたばかりですか?なにかお困りですか?」

 

というところから始まって数日間、彼女にライプツィヒのあちこちに連れていってもらい、生活の基盤がすっかり整うことになっていきます。

僕は人生で何人もの占い師と知り合っていますが、彼女ら(全員女性)は僕を見るなり一様に似たようなことを言います。

 

「ああ、あんたは大丈夫。いつも誰かが助けてくれる」

 

のんきそうな顔がそう言わせるのかどうか分かりませんが、そうだと助かるので信じることにしています。

 

占い師と同様に、僕の人生には何人もの謎の美女が登場(そのうちの一人とは結婚した)し、何かと世話を焼いてくれるという展開があります。ワイマールのノリコさんも相当な美人でした。

 

「どうした?」

 

同伴していた東洋人がドイツ語でミキさんに声を掛けましたが、背の高い男性は最初僕をかなりイヤな目で見ていました。

 

直後に彼はミキさんに同行している韓国人で友人であると知りました。

 

ミキさんは男に声を掛けられるのを減らすために、出掛けるときは既婚者の男性に同伴してもらうことにしていたのです。

 

彼女は今までライプツィヒ大学に通っていて、編入してこの先はハノーファーかどこか西の方の大学に移るためにこの外国人局に来たそうです。

 

僕が学生ビザの申請に来たこと、そのビザを使って学生寮を決め、銀行で口座を作り、学生保険を組まないといけない事を話しました。

 

「私は寮を出て友人のところに泊まっていて次の町の寮に入れるまでしばらく予定が空いているから、手伝いましょうか?」

 

 

2時間かけて学生ビザの申請と仮証明をもらうと、待っててくれた彼女(同伴の男性は帰っていった)に連れられて、学生生協に向かいました。

ドイツの事務系スタッフののんびりぶりは日本では考えられないレベルなのですが、どこの国でもそうだったと聞くので、おそらく日本が地球上で一番セカセカしているのでしょう。

 

ライプツィヒの外国人局も学生生協もドイツ銀行もミキさんという降って湧いた救世主のおかげでその日のうちに用事が済んでしまいました。

 

 

住居は郊外のギャルトナー(庭師の意味)通りの学生寮に決まり、ドイツ銀行で口座を開き、学生保険に必要なものを揃え、夕方になるとミキさんは先程の友人(韓国人男性)にホームパーティーに誘われたから一緒に行きませんか?と言われました。

 

はい行きます、が、何をどうすればよいやら。

 

ドイツでホームパーティーは基本持ち寄り、割り勘などはしないという事でした。

 

手土産の定番はチョコレートやワイン。お店で僕はワインを、ミキさんは焼き菓子を買ってその友人宅に向かいました。

 

 

着くとどうやらここも学生寮。韓国人の友人は先程とは打って変わって笑顔で迎えてくれました。

 

入ると東洋人が4人、奥さんと韓国の友人でした。夫婦で学生寮に入っている、これは新鮮でしたが、ドイツでは結構あることだそうです。

 

今でもそうか分かりませんがドイツは学生天国と言われ、何につけ学生を優遇しているのです。

 

大学は無料、格安の寮と健康保険、定期やレールパス、観劇の学割のタダ同然になる割引率、公共サービスも学生無料のものが多くあります。

 

そして留学生も本国の学生と同じ扱いになり、海外からドイツの大学に流入し、一旦入ると居心地が良くてお金がかからないといったメリットがありすぎて、学生が大学に居着いてしまい28歳くらいまで卒業しないのも珍しくありません。

 

長いあいだ専門分野を勉強するので、就職すると最初からベテランと対して変わりない働き方を要求されるとのことです。そして給料は安く、年功序列では上がっていかない(かといって成果報酬でもない)。税金も社会保障費も高い。

 

それで余計に学生であることを延ばしてしまうのでしょう。十分猶予を与えてあげるから、そのかわり大人になったらシビアな現実に適応してね、という社会モデルは日本とまったく違っていて面白いと思います。

 

 

それで、この韓国人夫婦も国には帰らず学生のままで寮にいる、という事でした。ホームパーティーは、何しに来た、ここで何やってる、という類の話を片言英語で話しながら夜がふけるまで続きました。

 

明日から寮に入れるのでホテルから移動です。寮はカラなので生活雑貨がいる。

 

ミキさんは帰りの路面電車の中で

 

明日IKEAに行きましょう。

 

と言って停留所で僕を降ろし、さらに真っ暗な郊外へと行ってしまいました。

ホテルから学生寮に移り、ミキさんと合流し郊外の路面電車に乗ってIKEAに向かいました。

 

ドイツも日本と同じで大型店は郊外にあります。路面電車は町の中央から住宅街を抜け、家がまばらになってサイロの立つ田園風景なっていきます。

 

路面電車に乗っているとドイツの町の成り立ちがよく分かります。町中は6階建てくらいのアパートが多く、簡素で暗い。時々アールヌーボーの建物があったり派手な看板があったりしますが、元東ドイツで2番めに大きかったこの町は、それが信じられないくらい地味です。

 

ところどころにある廃墟化した工場がこれまた街の印象を暗くしています。それらはドイツ統一で廃業した東時代の製造業跡で、再開発する目処も立たずそのまま放置されているようです。郊外は野原か畑。

 

日本にいるとドイツはヨーロッパでも近代的で経済は安定した印象で語られることが多いのですが、ここ東エリアの失業率は18%と高く、人々の生活はそれほど安定しているわけでもなさそうです。

 

そして表情が暗い。2日に1日は曇りまたは雨、というのも関係しているのかもしれません。

 

 

隣りに座るミキさんは小柄なのに明るい表情をしているので目立ちます。日本人女性に人気があるのはいくつか理由がありますが、まずこの表情があるのかな、と思います。

 

ドイツで会った日本人女性は大抵(おそらく日本にいるときより)オープン・マインドで、悲壮感と厳しさを宿らせた東ヨーロッパ人特有の顔とはパッと見印象がぜんぜん違って、健康かつ魅力的に見えます。

 

ラテン系の女性も明るいので周りから愛されるのですが押しが強く、寡黙で真面目なドイツ人男性とはマッチしづらい。

 

聞いた限りではヨーロッパ人男性にとってはスウェーデンの女性が圧倒的に人気があるとか。華奢でストレートのロングヘア、傘に長靴で寝起きみたいなぼんやりした目で妖精みたいに雨の中をふわふわフラフラ、こんな印象が典型的ですが、なんとなく分かるような。

 

スウェーデンの女性が別格だとすると次が日本人女性、そのくらい人気があります。共通点は肌が繊細できれいなこと、内気なこと、でしょうか。

 

ちなみに残念ながら日本人男性は全然人気がありません。出っ歯でメガネ、吊り目の印象。

 

 

こんな事を書くのも、こうやって人種別に見る・見られることで、相手にとって自分が何者であるか、日本ではないレベルで考えたり気付いたりしたのを思い出すからです。

 

自分が何者か、それを相手の印象から知ったら、自分のどこにアイデンティティを見いだすことができるのか、今まで向けなかった所に注意を向けることになります。

 

自分が何に属していて、そこから逃れられず、それを抱えて生きる。生き方は変えられるけど、抱えているものは勝手に下ろすことができない。

 

しかしそれを受け入れると、自分の好きではなかった顔や存在や振る舞いが何となく許せるような気になっていきます。

 

 

以前書いたのですが、日本がダサい、日本が嫌いで、自分の事もいっぱい嫌いな所があったのですが、帰国する頃には日本(国というより文化)も自分も好きになっていました。

 

そう気付くのも後々の事で、その時はIKEAに向かっているだけです。今では日本にIKEAが上陸して随分おなじみになり、同じような戦略で展開する起業も増えたので珍しくも何ともありませんが、20年前のIKEA初体験は僕には結構なインパクトでした。

 

フィンランド、オシャレ。ドイツ、クール。日本、やっぱり世界の田舎。

 

IKEAから生活雑貨を抱えて町の中央に帰ってくるときは、ようやくヨーロッパに入り込んだような気分になっていました。

 

やっぱり田舎者。コンプレックス。

寮生活をスタートする上でまず食料品を、という事でミキさんがドイツ生活での食料品の買い方のコツを伝授してくれました。

 

ワイマール滞在中は手がかりもなく自分で適当にスーパーで目につくものを買っていたので、パンと豚肉加工品、チーズに卵と偏った食生活になっていました。

 

僕は親父が朝ごはんはコメと味噌汁でないと許さないタチで、僕もすっかりコメ党だったのですがドイツでは手に入りにくいものだと決め込んでいました。

 

それが生米は簡単に手に入るものだった…。

 

シリアルコーナーに行くと「ミルヒライス」という箱の商品が山と積まれています。

 

パッケージにはミルクで煮る甘いライス・シリアルだと書いてあるし、写真もドロドロの白いミルク粥がスプーンですくわれているので、目に入っても自分には関係ないものだと思っていました。

 

が、ポッキーサイズの箱を開けてみると中は生米。

 

コレを単に白米に炊けばいいわけか!これを知ってから帰国まで、基本このコメを主食とすることになりました。

 

知らなければスルーし続けるところだったのでこれは助かりました。

 

その他、ミネラルウォーターは高くつくので炭酸水をストックしておくこと(ドイツは炭酸水の方が安い)、パスタはバリラなどイタリア製を買ったほうが無難であること(ドイツ製の加工品は味がよろしくない)、塩、お茶、チョコレートや菓子類の避けたほうがよいもの…歯磨きペースト、洗剤のオススメなど、生活してみないと分からないことばかり…。

 

寮に物を運び込むと、当面の生活は問題なしになり唐突に「ではお元気で…」とミキさんとはあっさりお別れとなりました。

 

ポツンと寮に一人残ったら、急に何をどうしたらいいか分からなくなってきましたが、もうすぐに入学です。寮は郊外で学校は中央駅の裏手。Sバーンというローカル線(日本では江ノ電や叡電みたいな)を使って25分かけて通うことになります。

 

お次はドイツ語学校入学からのお話。

 

​小地球のドイツ語教室

ヘルダードイツ語学校の教室は小さく、クラスには生徒がぎゅうぎゅうに詰められスタートしました。

 

人数の多い順に、

 

中国から4人♂♂♀♀、モロッコからも4人♂♂♂♂

キプロスから2人♂♀

 

あとは一人ずつ、

ブラジル♀

フランス♀

シリア♂

韓国♀

モルドヴァ♀

カメルーン♀

そして僕、日本から。

 

入学前の簡単なテストでクラス分けされ、ここはどうやらドイツ語が全くできないどんじりクラス。

 

人数が多いので中国語とアラブ語が飛び交いますが、他の国でも別の言語が交錯します。

 

フランス人とモロッコ人とカメルーン人はフランス語で喋れますし、

 

モロッコ人とシリア人はアラブ語で喋れます。

 

シリア人とモルドヴァ人はルーマニア語で喋れるので、

 

フランス・カメルーン・モロッコ・シリア・モルドヴァは橋渡しでコミュニケーションが取れます。

 

*シリアはズーリアックと発音するのでシラクと書いてしまっていました。訂正済。

 

 

一方、日本と韓国と中国は漢字がある程度通じるので筆談ができます。簡単な英語と筆談でこれもコミュニケーションが取れてしまいます。

 

キプロスとブラジルは英語が堪能なので、これまた問題なくコミュニケーションが取れ、中国人留学生は英語が堪能なのでその輪に加われます。

 

 

これでクラスは自然と2つのコミュニケーション・グループができあがりました。

 

しかしそれも最初だけで僕はまもなく幾人かと、とりわけ仲良くなりました。言語より空気、ウマが合うかの方が勝るのでしょう。

 

互いにドイツ語が話せるようになっていくと、押しの弱い僕は、シャイなブラジル・モルドヴァの女の子らと、ユニークな医者のシリア人男性と、そして他のクラスのウクライナの16歳の男の子と仲良くなっていきました。

学校が無事始まると、計画では

 

①ワイマールのチェロの先生に新しい先生を紹介してもらう

 

②この町のアレクサンダー・テクニークの先生を見つける

 

でしたが、ふとしたことが運命の分かれ目になりました。

 

このところの目まぐるしい環境の変化に、自分の価値基準というか、選択基準が揺らいでいたのか、この順番をひっくり返してしまいました。

 

まず②のアレクサンダー・テクニークの先生を先に探したのです。

 

 

ネット上にあるドイツの教師リストには、この町には2人のアレクサンダー教師がいるとのことで、どちらにもメールを送りました。

 

すぐに一人から返事がありました。その人は町で一番大きな教会、ニコラス教会のキンダーガートゥン(付属幼稚園)で、空き時間にレッスンをしているというのです。

 

既にニコラス教会は知っていたし、行ってみるとそこではオルガンの演奏も無料で聴ける機会が頻繁にあるとのことで、その後はこの教会に頻繁に足を運ぶことになります。

 

 

ドイツ生活でハマった事のひとつは、教会のオルガンを聴きに行くことでした。これはもう体験しないと分からないし、知っている人はよく分かると思いますが、衝撃的というか圧倒的というか、知っている限りでは最も音楽の力を感じるものなのではないかと思います。

 

静まり返った大聖堂で最初の一音が来ると、ゼウスの稲妻に貫かれたように麻痺状態になってしまいます。ライブでデカい音を聴く機会もない昔の人には相当特別な体験・存在であったかと思います。

 

キリスト教が広まった理由のひとつは「音楽」、これは間違いないと思います。説法の内容ではなくて、オルガンで脳髄を仕留められる、と思ったほうが説得力があるくらい強力。

 

そんな背景と歴史の蓄積があるドイツなので、音楽活動に対する保護支援が盛んで手厚いのでしょう。

 

地域活性のネタ用にオマケ支援するくらいエンターテイメントと絡めないとその存在価値がよく分からない、引き気味の日本の音楽支援とはえらい違いなのですが、こういった事を知らないとしょうがないのかもしれません。

 

 

さて、アレクサンダー・テクニークは日本で体験してきましたが、レッスンを受け学習していくのは初めてです。先に当たった先生はヘルムート・レーンシューというピアニストでもある男性でした。

ドイツ語学校も慣れてくるとドイツ人との交流は先生くらいなもので、現地の人と話したくなります。

 

その方がドイツ語早く上達するよ!とクラスメートが言うもので、ドイツ語を勉強するモチベーションがさほどなかった僕もなんとなくあおられて、タンデムパートナーに興味を持ちました。

 

 

タンデムパートナーとは大学が推薦する語学交換プログラムの一種で、例えばドイツ語を学びたい日本人と日本語を学びたいドイツ人をカップリングするようなシステムです。

 

システムといっても掲示板があったり人づてに紹介してもらうような簡単でラフなもので、僕のケースも

 

「空いてる日本人探してるドイツ人の女の子がいるんだけど…」

 

と知人に声をかけられ、唐突に機会が回ってきたのでした。

 

 

さて、どんな人か会ってみるまでわかりません。気軽に受けたものの…

 

「おいおいやべーぞ。日本人を当たるドイツ女はださださアニメオタクに決まってんぞ」

 

となりのクラスで一緒につるむようになったウズベク人のバブアーがニヤニヤしながらそう言います。

 

「面白いから見に行こうぜ」

 

ウクライナ人のサーシャもそう言って、結局待ち合わせ場所のメンザ(学生カフェ)にふたりともついてきてしまいました。

 

ひとつ隔てたテーブルから

 

「絶対デブだぜ」

 

「そばかすだらけの醜いキモオタだろう」

 

などという茶化しを受けながら待っていましたが、約束の時間になってもそれらしき女性は現れません。

 

15分は経って、ふたりがなんだ面白くねえの、と飽き始めました。

 

すると、急いで入ってきたグラマーかつノーブルな金髪の女性がキョロキョロしだしました。

 

「おいおいまさか…」とふたりがつぶやくと、その女性は僕のところにまっすぐやってきて、

 

「ごめんなさい。あなたがシン?」

 

「そう。アンヤ・ウェーバー?はじめまして。」

 

彼女が僕のテーブルに座り、隣を見るとふたりとも口が開いたまま固まっているのでした。

ライプツィヒは暗い町だけど、ひとつ華々しいスペシャリティがあります。

 

メッセ、日本の幕張にあるような大規模な見本市開場があるのです。それは世界最古、1190年から続く見本市で、この町が交易交差点であり、中央駅がヨーロッパ最大だった理由でもあります。

 

滞在中、このメッセ開場に何度か訪れました。ライプツィガーメッセは特にブッフ(本)メッセが有名でそちらにも行きましたし、モーターファーラッド(バイク)メッセもバブアー、サーシャと連れ立って見に行きました。

 

 

僕のタンデムパートナー、アンヤは本当にイタリアのバイクメーカー、ドゥカティ専属のレースクィーンとしてそのメッセに呼ばれていました。

 

普段はライプツィヒ大学の学生で、日本にあこがれてヤパノロギー(日本文化学)を専攻し対日本の外交官になる勉強中でした。

 

僕はそんなスマートでセクシーなブロンドの子と毎週のように会うことになりました。

 

 

「ふざけんじゃねーよ」

 

バブアーはアンヤが僕のタンデムパートナーになってからしばらくの間、ふてくされていました。

 

彼はウズベクから来た小柄な男で、童顔だけど口ひげを生やし、ビッグマウスで素行が悪いので他の生徒に煙たがられていました。

 

彼は僕によく話しかけてきて(おそらく見た目がもろアジア+中国人ではないから)、僕はアニメに出てきそうな彼のキャラが面白いし、粗暴な態度だけど実は小心者だと分かり気にならず、彼とロシア語でしゃべるウクライナ人のサーシャとよくつるむようになりました。

 

バブアーはドイツ語学校でやる気のなさを全開に放っていました。なのになぜドイツに来たのか、話しているうちに次第に分かってきました。

 

彼の父親はプロレス興行主の豪商で、彼を兵役から逃れさせるために乗り気でない彼を無理やりドイツに留学させたのです。

 

それでいつもふてくされていたのですが、僕のようなパッとしないジャップがアンヤと毎週のように会うのが相当気に食わなかったようです。

 

「べつにシンのせいじゃねーし。俺は日本の女のほうがいい」

 

サーシャはバブアーのようにはふてくされて絡んではきません。

 

サーシャは狼のように鋭い顔で、190センチのひょろながい16歳の男の子。ウクライナでかなり官位の高いと思われる、警察に勤める父親が、将来を幸薄いウクライナよりもヨーロッパの西側で、と考え彼をドイツに送り込んだようです。

 

彼は美術関係の勉強をしようとしていましたが、スティーブ・ヴァイやジョン・マクラフリンが大好きなギター小僧で、僕がチェロを弾くと聞いて音楽の話をするようになり、次第に日本から持ってきたCDを貸したりしているうちに仲良くなりました。

 

バブアーとサーシャはロシア語で話すので彼らだけの会話は僕には全然分からないのですが、バブアーは僕をバカにしながら悪態をつき、サーシャが僕をかばっているようでした。

 

 

僕はアンヤに日本人を探しているドイツ人にはアニメオタクが多いのかと聞きました。

 

「確かにヤパノロギーの子たちってアニメが入り口だし、ちょっとコーミッシュな(妙な)人が多いわね」

 

今でこそアニメ文化もかなり世間のコンセンサスを得られるようになったけれど、20年前は日本でも世間の目はオタクに厳しかったし、ドイツでは相当変人扱いされただろうと思います。

 

「私はハヤオ(宮崎)は好きだけど、アニメファンってわけじゃない。日本の禅や侘び寂びに魅力を感じてるの」

 

といった様子で、アンヤと僕はお互いのカルチャーやサブカル、そして来年に迫っていた2002年日韓ワールドカップ、サッカーのことなどを話して過ごすのでした。

モルドヴァという国をご存知ですか?

 

ヨーロッパ最貧国。

 

東ヨーロッパ、ルーマニアの東、ウクライナの手前にある小さな国です。

 

wikipedia:モルドヴァ

 

ドイツ語学校、僕の片方の隣はモルドヴァから来た女の子でした。

 

ジュリエット・ビノシュに似てるきれいな子だけど、口の上にうっすら産毛があってそれが濃いので、口ひげがあるように見えていました。

 

初対面でモルドヴァから来た、と言われ、全然その国のことを知らなかったので帰って調べました。

 

旧ソヴィエトで最貧地域。

 

ソヴィエト解体後ロシアに再侵入されている。

 

 

その子はオルガといってとてもシャイ。英語も殆どできないので他の人と全然喋りません。

 

隣の僕に慣れてくると、次第に僕になついてくるというか、えらく気に入られたようでベタベタするというかアベックっぽいそぶりをするので、

 

「おいシン、オルガいけるんちゃう?」

 

と僕のもう片方のシリア人ネジャッドが言ってきたりしました。

 

はは、違う。

 

彼女は身の上のことを僕にポツポツ話していて、他の生徒には内緒だと言ってかわいい男の子の写真を見せてくれたことがあるのです。

 

5歳くらい。金髪でネクタイとジャケット、笑顔。七五三みたいな記念写真。

 

オルガは27歳で、結婚していて本国に子供がいるのです。

 

子供をモルドヴァに置いてきているらしい。なぜかは分かりません。

 

 

何か理由があってオルガだけドイツに行かされているらしい。

 

彼女もバブアー同様自分の意志でドイツに来ているわけではなく、ドイツ語の勉強もやる気がなさそうです。

 

授業中、しょっちゅう僕の教科書に落書きをして気を引いたりしてきます。

 

その落書きは殆ど下ネタ。

 

なんでそんなのばっかり描くの?て聞くと、

 

「私が学校に行ってた頃、世の中にエロティックな情報は一切なかったし、テレビ女優もブラウスの一番上までボタンがきちっと留められているくらい、性的な描写が規制されていたの」

 

「でもセックスってものがあるって子どもたちの噂になるから、親に聞くんだけど、大人はそのことを子供が口にすると激怒するから聞けないの」

 

「だからみんなそれがどんなものか想像して教科書に落書きするの。私の教科書も友達のも、教科書はその類の落書きでいっぱいよ。」

 

「16歳でソヴィエトが崩壊して西洋文化が入ってきて、初めてメイク・ラブのシーンを見た。想像し続けたものとは全然違ったわ」

 

「そんなわけで、教科書はメイク・ラブの想像で埋め尽くすべきモノなのよ。」

 

 

僕はある時自分のチェロの演奏を録音して彼女に聴かせたことがあります。

 

彼女は2分ほどじっと耳を澄ませて聴き、イヤホンをおもむろに返し、真顔で

 

 

「バッハはもっとやさしく弾いて」

 

とだけ言ってそっぽを向いてしまいました。

僕の右に座るモルドヴァ人のオルガと左に座るシリア人のネジャッドは、ルーマニア語で話します。

 

ネジャッドがルーマニア語を話すと分かったオルガは途端に巻き舌のRがいっぱい出てくる言葉で爆発的に話し始めました。

 

僕がシリアとモルドヴァが同じ言語で?不思議だと言うと、

 

「ルーマニアにとっては黒海を超えてトルコの次はシリアなんだよ」

 

ネジャッドが教えてくれました。

 

シリア人にとってアラブ語のトルコをスキップして、第一外国語はルーマニア語となるから話せるシリア人もままいると。

 

一方モルドヴァはもともとルーマニアの一部で、分割されているがルーツは同じとのこと。

 

 

ルーマニア語は「ローマン」といって、ローマ帝国の名残。

 

イタリアの西ローマから遷都したコンスタンティヌス、東ローマ帝国コンスタンティノープル、後に西ローマが滅びてビザンツ帝国として存続し、トルコに侵略され町はイスタンブールとなります。その西はブルガリア、ルーマニアは北。

 

 

スラブの土地を支配したイタリア人によって、ルーマニアはラテン系カトリックの性質をベースに持つことになり、オルガは黒髪で体毛が濃く(ひげがある)、巻き舌のRを多用した喋り方をします。

 

そしてソヴィエトに支配され、ロシア語を話します。

 

ロシア語を話すのに、ロシア語とロシア人を憎んでいます。

 

11歳まで、学校でロシア語を強要されたから、と言います。

 

両親とも祖父母とも違う言語を使わされ、モルドヴァ語を使うと厳しい罰則があったそうです。ソ連解体の16歳まで、公用語はロシア語でした。

 

wikipediaでモルドヴァ公国の歴史の項目を読むと飢餓と侵略のことばかりで、その原因にロシアとソヴィエトが絡んできています。

 

オルガがロシアを憎む理由は実害に遭ったというより、代々そう教育されてきたからのようです。

 

 

ヘルダードイツ語学校には東ヨーロッパ出身の生徒がたくさんいることが分かってきました。旧ソヴィエトか、そのプレッシャーを受けた人たち。

 

ルーマニア、モルドヴァ、ブルガリア、ベラルーシ、ウクライナ、アルメニア、ポーランド…、みんなロシア語が話せるのに、ロシア人を嫌っているようです。

 

一方、ロシア人の生徒数も結構多く、他のクラスに固まって多いのでどうも意図的に分けられているようでした。

 

ロシア語を話すグループが2つあるのですが、交流は完全に分かれているのです。

 

 

「まあまあ。昔のことは忘れて、仲良くしようよ」

 

とてもそんな事が言い出せる雰囲気ではなく、僕は互いの言うことを聴くだけ聴くしかありませんでした。

 

 

もともと世界史は好きでしたが、こんな体験から民族のルーツと移動、アイデンティティを形づくっているものを調べるようになりました。

 

大抵、他の国の生徒は自国が大好きで誇りを持っています。そして日本が、日本の文化が大好きだと言います。

 

僕は複雑な気分でした。ブログの一回目に書いたように、僕は日本文化がダサくて嫌いで、日本の生活がイヤでとにかく出て行きたかったし、実行してきたからです。

僕がドイツ語の聞き取りで難しかったのは数字です。

 

クラスで聞き取りの授業があるのですが、なかなか聞き取れませんでした。

 

電話番号などは数字が一続きなので全然聞き取れません。

 

ドイツ語と英語は数字があまり被っていないので、イメージが更新しなくて余計に混乱しました。

 

ゼロはヌル、セブンはズィーペンなので007はヌルヌルズィーペン。

 

定着しないでしょう?

 

毎朝テレビのニュースにナスダックが株価のテロップを流しているので、それを手当たりしだいに音読したりしてトレーニングしていました。

 

 

そういえばドイツは国際的なものもけっこう母国語で通しています。

 

ゴールはトーア。

 

ワールドカップはヴェルトマイスターシャフト。

 

サンタクロースはヴァイナハツマンで、

 

クリスマスはヴァイナホテン。

 

これらはどこの国でも共通した呼び名になっているのに、ドイツでは頑なに本国読みなのに何となく意固地な国民性を感じます。

 

 

単語構成は日本語と結構似ていて、どれだけでも長くなっていきます。

 

故井上ひさしさんがドイツ語の長い単語として

 

Kriegesgefangenenentschaedigungsgezetz(戦争捕虜損害補償法)

 

を挙げていましたが、日本銀行のガラスに印字されているものも似たようなもので、日本語も漢字表記すると外国人泣かせなのでしょうね。

 

この辺りは馴染みのあるルール構成だし、他にもドイツ語と日本語の共通点は結構あるので僕は自然と会話よりもテキストが得意になっていきました。

 

それで、会話がなかなかできない僕がペーパーテストで点が良くて、物怖じせずドイツ語で会話をしている英語圏のキプロスの子らのペーパーテストの点が意外に低いということが起こってきます。

 

 

僕は次第にドイツ語の文法が英語より理解しやすい、と思えるようになっていきました。

 

なんせルールから外れない。秩序立っています。この言語からドイツ人の性質が読み取れそうです。

 

逆に英語は文章構成が結構自由であったり、不規則変化や慣用表現がイレギュラーに入り交じるので、ドイツ語より奔放に感じて「慣れるしかない世界」のように思えてきます。

 

日本語とドイツ語のルールがはっきりしているところは、記述したものがベースに言語が保存・発展していったからと聞いたことがあります。

 

一方、英語は口語で発展していき、使う頻度が高い言葉は判別が瞬時にできるよう不規則変化が多くなった、と聞きました。

 

 

ドイツ語はルターの記述がみほん、現代文法のルーツと言われています。日本語は日本書紀や古事記?源氏物語?どの辺がルーツかは分かりませんが、どちらとも言語とは記録されるものであるという前提があるように思います。

 

そしてドイツ人も日本人も国民性は似通っています。秩序の中で安心・安全を感じ、そこからはみ出ると不安になります。

 

時間も信号も法律も遵守します。車のない交差点で信号は赤、渡らないのはドイツ人と日本人くらいです。他の国の子らは「あいつらなんで止まってんの?」という感じで不思議そうに見ていました。

 

 

ドイツ語を習うことに最初興味が沸かなかったけれど、こんな状況に放り込まれたことでその後の自分に多大な影響を与え、言葉と身体、そしてその人の性質を見ることに繋がっていったように思います。

 

コーラを奢って後悔する

(読了時間:5分)

郊外研修の帰りにクラスメートと町中でぶらぶらする機会がありました。

 

中国の子らとモロッコなどアラブの子らは人数が多く、普段は仲間と連れ立っているのであまり一緒に遊ぶ事がなかったのですが、このときの混合グループは珍しいメンツだったので、みんな何となくウキウキしているように見えました。

 

中央駅の地下で中国の子らが「お腹すいた」、といって唐突にピザハットのカウンターに並びました。

 

アラブの子たちは途端に険しい表情になり、僕もアラブの子たちと一緒に店の前で中国の子たちが注文するのを見ていました。

 

 

20年前の当時、まだ中国は経済台頭する前で、聞くとドイツに留学してくる中国の子らは富豪の子たちばかりでした。

 

お店に入る前に、一言「ココ入らない?」と声掛けでもあればよかったのですが、好きなように動くことに慣れているようで不意のことに唖然としてしまいました。

 

しかしアラブの子らは、僕とは違う理由で緊張感を持ったようでした。

 

 

中国の子らはピザとドリンクを持ってスタンドで食べ始めました。僕は気まずい空気を何とかしようと、「ちょっと待ってて」とアラブの子たちに言ってカウンターに行き、僕とアラブの子ら4人のコーラを頼みました。

 

中国の子らの横のスタンドにそれを置いて、アラブの子らに「どうぞ」と言って呼びました。

 

喜ぶかと思ったのですが彼らは「なんてことするんだ!」とつぶやきました。

 

 

でも、僕の気持ちも察したのか、肩を落として僕のところに加わり、「ありがとう」と言いました。

 

僕はまずい気持ちになりましたが、どこがまずかったのかいまいち分かりませんでした。

 

豚肉がダメでピザはリスクがあるのは分かっていたので、あえてコーラだけにしてうまくやったつもりだったのに…。

 

 

テーブルで、ある子が言いました。

 

「このコーラは400円もする。これはモロッコの漁師の日給くらいだよ。君がそれをあっさりいくつも買った。僕らにとっては贅沢すぎてもったいない気持ちとくやしい気持ちになる」

 

「僕らも本国ではかなり裕福な方で、そうでないとドイツに留学なんてできない。モロッコでは子供をヨーロッパに留学させて仕送りさせると、生活がとても楽になるので何とかこちらに留まれるように勉強するんだ。贅沢はできない」

 

「でも本当は君がしたことに感動している。今度僕らの集まりで食事をごちそうしたいから、ぜひおいでよ」

 

他の子らもうなずいて、僕はイスラムの食事会の集まりに行く約束をしました。

 

ドイツでイスラム信者の居住者は多くあちこちにムスクやケバップ屋、アラブ系の食料品店があります。

 

何となく、イスラマーの店っぽい雰囲気からそうでないと入ってはいけないように思えて入ったことがなかったのですが、クラスメートに連れられひとつのケバップ屋に入りました。

 

 

イスラムの生徒たちにコーラを奢ったことがきっかけで、彼らの食事会に誘われたのです。

 

食事会はとある学生寮の一部屋で行われるとのことでしたが、その前に食品を調達しに行くから、とそのケバップ屋に寄ったのです。

 

 

青いタイルのきれいな内装のケバップ屋です。

 

ケバップとはアラブのサンドイッチで、1mくらいの棒に鶏肉や牛肉を重ねて刺したシンボリックな肉塊が店頭にあります。

 

回りながら焼かれているそれをこそいで、ピタパンに野菜と一緒にモリモリに挟んで食べます。

 

ボリュームがあるのに300円くらいなので、友人とよくスタンドで買って歩きながら食べました。

 

 

クラスメート達は「サラーム」と言ってその店の店主に挨拶すると彼は「おう」と顎を振り、クラスメートらは裏口から食料品を次々運び始めました。

 

店主が家族?そう思いましたがやりとりではどうもそうではないようで、これは彼らの間で日常的な事みたいです。

 

一人ずつ食料品を詰めたダンボールを持って「サラーム」と言って店を出て、学生寮に向かいました。

 

 

部屋に入ると沢山の20歳前後のアラブ系の男の子たちがいて、「よく来たね!」と歓待してくれました。

 

10人はいると思いますが、別の部屋にもいて次々に出入りするので誰が誰だかもう分かりません。テーブルに食料品を置き、僕に飲み物とスナックを勧めてくれます。

 

どうも僕がピザハットでコーラを奢った話は周りに伝わっているようで、とてもよくしてくれます。日本の事を尋ねられ、特にアニメや武道に興味があるとのことです。

 

みんなドラゴンボールや北斗の拳が大好き。ポケモンやドラえもんのこともちょっと出てきましたが、男の子たちばかりなので格闘モノ、それとなんと言ってもキャプテン翼の人気がすごいようです。

 

モロッコではサッカーがとにかく人気で、日中は暑すぎてできたものではないので、夜になると子どもたちはサッカーをしに外に出てくるとの事です。

 

あと空手と柔道が盛んなようで、僕に後ろ回し蹴り、上段構え、など知っている事を言ってきます。これらはもと植民地のフランスの影響のようです。

 

習っていた子が空手の型を披露し始めました。彼らは押しなべて体つきがよく、細身でもがっしりとしているので迫力があります。

 

僕は思いついて、お返しのようにブルース・リーの真似事をしてみました。以前、ドラムをやっていた友人とからだを素早く動かすコツを得ようと、ブルース・リーのマネをしていたことがあったのです。

 

「はやい!」「柔らかくて鋭い!」と予想外にも大受けし、「どうやってる?」と質問攻めになりました。

 

楽しく過ごして夜もすっかり遅くなり帰りとなりましたが、「また来いよ!」とすっかり受け入れられた様子で、にぎやかなアパートを出ると寒空に一人で中央駅に向かいました。

 

 

後日色々分かってきたのですが、イスラマーは自分たちのコミュニティをつくり、お互い助け合って暮らしているのです。

 

ケバップ屋で食料品を大量に持ち去られてもケバップ屋は平然としていました。おそらく仕入れなど自分の手持ちでしているわけではなく、イスラムのコミュニティからの供給なのでしょう。

 

店に出入りしているアラブ系の人で払わなかったりする人がいるのも後々目撃していますから、その店の店主はコミュニティの食堂担当、といった感じなのでしょうか。

 

あと、部屋にいた若者の多くは住居不定で、一人が寮を借りれると家賃を浮かそうと入れるだけ入ってきてしまいます。

 

ドイツ人には露骨にアラブ系を嫌う人もいるのですが、理由を聞くと「経済バランスが狂うから出ていってほしい」と言います。

 

人種差別には反対でも嫌うのはそれなりに理由もあるようで、その原因の彼らのコミュニティ運営も、マイノリティへの厳しい仕組みに対する生きる知恵なのだと思います。僕が知ったのは一部で、もっと大胆なこともしているのでしょう。

 

日本は?日本人は?

 

 

僕はこのドイツ滞在後帰国し、日本人が基本的に差別体質なのをとても感じるようになったのですが、以前は全然気付かないこともそう察するようになりました。

 

僕には、多くの日本人は生活レベルで自分と違うものに対し徹底して不寛容に見えるのですが、格好と表現は多様化し差別反対と声高に憤っていたりしてその気付かなさゆえのギャップは結構なものです。

 

おそらくこの普通に根づいている差別意識は、一旦日本から離れないと気付くのが難しいと思います。

 

でも人にツッコミを入れるのは簡単、まず自分の表現に注意しようと思っているのですが、僕も気付いていないところがあるのだといつも念頭に置いています。

学生寮は二人一組で、キッチン・ダイニング、風呂・トイレは共有スペースです。僕はドイツ語学校に入学してしばらくルームメイトがいなかったので、一人気ままに共有部を使っていました。

 

ある日、寮長に「君のところにルームメイトが入るからね」と言われ、気楽な生活が終わるのでがっかり、しかしどんな子が来るのだろうという興味の入り混じった気持ちで、その日を迎えました。

 

「こんにちは!タリクといいます。よろしく」

 

と入ってきたのはイスラム系の背の低い真面目そうな男の子。

 

謙虚で品のよい感じに僕はすっかり安心して、料理するにも譲り合いながらで生活は気楽さを失われずにありがたく思っていました。

 

タリクはヨルダンから来たシステム・エンジニア志望の留学生。日本にもクラスに一人はいそうな、損なくらい実直なキャラで、時折ダイニングでお国の事を話し合いながら過ごし、すっかり親近感が湧く間柄になりました。

 

ところが…。

 

 

あれ?いつの間にか牛乳が減っていて、そんなに使ってたかな?と思うとシャンプーも、あれ?おかしいな、こんなに減っている…。

 

気付いたときには、あらゆるものが早く消費されていっている!

 

こっそりボトルにラインを引いておいて減り方を見ると、間違いありません。

 

さてどうしよう。

 

あんなに真面目そうなタリクが、分からないわけがないくらい僕の物を使って、普段は平気な顔をしている…。

 

 

僕はあまり変化球を投げられないタチなので、思い切って聞いてみました。

 

「あの、タリク。僕のもの使っているよね?」

 

「何が?」

 

「食べ物やシャンプーなんか消耗品。何か困っているんだったら分けられるものは分けるから、使うときは言ってよ」

 

「どれがオマエのものだって?」

 

??

 

僕が冷蔵庫を開けて見せようと手を伸ばした時、がっしりと腕を掴まれました。

 

その手の掴む力の強さにぎょっとして、相手の顔を見ると怒りで硬直しています。

 

しかし、僕もここで引き下がるわけにもいかず相手の顔をじっと見ました。

 

しばらくお互いに沈黙していましたが、向こうが手を離して自室に向かい扉を閉めてしまいました。

 

一旦その場は終わってほっとしましたが、未消化のままお互いに会わないような生活になってしまいました。

 

 

彼の怒り方は、僕が侮辱を与えたような感じでした。

 

僕は僕でフェアな行動を取ったつもりだし、彼の怒りは理不尽なものだとしか思えません。

 

イスラムの生徒たちが消耗品をシェアし合いながら共同生活していることは知っていました。

 

彼らの基本スタンスは、持っている者からは遠慮なくもらってもよい、なのかな?そう推測しました。

 

1週間ほど経って、タリクがいるところを掴まえ、僕は日本人であっても余裕があるほど持っている者ではなく、切り詰めてドイツに滞在しているから何でも分け与えられるというわけではない、必要だったら使ってもいいか聞いてくれ、と言いました。

 

すると、タリクは悪かった、もうしない、と言い、その場で緊張を解くことができました。そしてその後は何もありませんでした。

 

 

ずっと後になって他の日本人留学生と話した時、

 

「そう、俺のイスラムのルームメイトも、おはようとか言いながら冷蔵庫からおもむろに俺の水ゴクゴク飲むんだよ、ラッパで。それで平然と面と向かって話してんだから、もう注意する気も起こらない」

 

どうも常識の感覚が随分違うのですっかり頭を切り替えるしかないな、と当時は思いました。似たような経験をしている日本人が他にいる事だし、そんなものかと。

 

しかし同時に、日本人は世界でも稀に見るくらい、明らかに裕福で安全で恵まれた社会で生まれ育ち、その割に絶えず節約志向で分け与えることに消極的であるとも思えてきました。

 

自分だって振り返ってみるとそういう傾向が強く、彼らの感覚と比べると何かと発想がケチ臭いように思うのです。

 

お金や時間、権利、分配、責任、これらに対する日本人のスタンスはある意味「セコい」の一言。おおらかさにかけ、柔軟な思考を持てない。

 

そしてルールを犯す相手には責める権利を遺憾なく発揮できるのを念頭に、抑制し合ってそこそこ安定した関係を保てている。

 

これが日本文化では「気遣い」や「思いやり」という名前があって、私達にはそれが美しかったり責務だったり当然だったりするのですが、別の文化ではそうとは限らないのかもしれない。

 

タリクには僕の態度は怒りを感じるほど納得いかなかったものだったし、個人の事情が分かれば配慮できるとしても、やはりケチくさい人として非常識なルームメイトだったのでしょう。

 

イスラムの人だからか、アラブの文化だからか結局分かりませんでしたが、タリクは僕の不寛容さに不当さを感じていたように思います。

 

不寛容さ、これは日本文化の性質の一つで、自分が知らないうちに持つ性質。

 

これはトゲのように深く刺さり、事あるごとに僕に考えさせる事になりました。

ライプツィヒ大学の南側に元監獄を改修したお店「モーリッツ・バスタイ」があります。

 

クラブといっても昼からオープンし、地階にも吹き抜けのテラスがあって学生がたむろし、おしゃべりしたりゆっくりと読書をしていたりします。

 

バスタイは要塞の意味で、大学周辺の石畳一体は古代の町の要塞の名残です。

 

70年代に学生らによって発掘され、基金を設立して大学公認のクラブとして運営されるという面白い経緯を持つお店。

 

岩肌と補強レンガで囲まれたアリの巣のような複雜な構造で、スペースごとにイベントをしています。

 

一番大きなホールは100人収容くらいのライブハウスになっていて、ポップス・ジャズ・クラシックからモダンダンスなどのパフォーマンスが見られます。

 

ワイマールと同じでディプロマ(卒業)コンサートに使われる事が多く、その場合はフリー・ライブなので手にビールやコーヒーを持ってぶらぶらしながら音楽を聞いたり他の学生としゃべりに行ったり来たりします。

 

(少し後、2005年頃京都のアンデパンダンというアンダーグラウンドなライブハウスによく行きましたが、そこととてもよく似ていました)

 

モーリッツ・バスタイのざらついたアングラ感が気に入ってしょっちゅう行っていましたが、ある時イスラムの生徒とアジア人二人でビリヤードの勝負になりました。

 

僕はビリヤードなどしたことがほとんどなく、アラブの豪遊生活でビリヤードに慣れたハイタンとハサンが圧勝しました。

 

僕と組んだ中国人のファンも富裕層の息子で遊び慣れているのですが、僕と組むとなるとどうしようもない。

 

ファンは男前で周りに中国人の女の子を沢山連れていて、その子らが僕にもエールを送ってくれるのは嬉しいものでした。

 

勝負が終わるとファンは一緒に飲もうと言ってテーブルに着き、彼の中国での生活の話になり僕にフィアンセだと写真を見せてくれました。

 

 

どう見てもモデル!

 

 

その通りで彼は中国のモデルでタレントと付き合っており、恋しくて毎晩電話しているとのこと。

 

どうしてドイツに来たのかというと、案の定兵役をパスする手段として親から送り込まれたとのことです。

 

中国では選抜徴兵制度と志願兵制の混合で、年々志願兵の割合を増やし貧困層で兵数を確保する傾向が強まっているのですが、選抜はいわゆるくじ引きで誰もが当たることは当たるもので、ファンのような富裕層は海外留学で免除といった手を使う事ができるのです。

 

ファンは上海出身で日本は好きだそうで、本国でも日本を嫌悪しているのは年齢層の高い頑固な世代だから、中国と日本の若者は仲良くしたほうがいいと言います。

 

日本が好きな理由はドラゴンボールが大好きだから。あらゆるアニメを知っています。僕より知っている。

 

漫画やアニメは海外でとにかく人気があり、初対面で僕が日本人だと言うとどの国の人も必ずアニメの話をします。

 

アニメは世界平和の一端を担っている?

 

そうかもしれない。サッカーとアニメ、この2つで国際問題の半分は沈静化されているかもしれないくらい影響力があります。

 

 

ファンもサッカーは好きで、ライプツィヒにも中国人のサッカークラブがあり、そちらに加わっているとの事。

 

日本人のサッカークラブはあるのかな?野球のほうがありそうですが(後にフランクフルトやデュッセルドルフでは実際にある事を知った)、普段から日本人が集うほどこの町にいるわけでもなさそうだし…。

 

来年まであと2ヶ月、2002年日韓ワールドカップ、ドイツ人のサッカー愛!ナカタはみんな知っています。

 

僕は史上初の日本でのワールドカップの年を、熱狂のドイツで過ごすことになるのです。

 

​無知ほど怖いものはなし

(読了目安:5分)

ライプツィヒではネオナチのグループに襲撃される事件が頻繁に起こります。

 

ある女性は明け方アウグスト広場に転がっていたのですが、レイプされて腕に鉤十字のタトゥーが彫られていました。

 

この事件は僕がこの町に来て最初に報道されたものでしたが、その後もいくつかの事件がありました。

 

さて、僕が中央で友人と遊んで終電で帰るのが日常化してしまったときに、唐突にまずいことになりました。

 

Sバーンというボロボロの2階建ての電車で20分、よくストが起こる電車なのですが、

他の手段である路面電車では30分以上かかるうえ最寄りの停留所からけっこう歩かないといけないので、普段はこちらを使っていました。

 

この電車は終電になるとひと車両に一人くらいしか載っておらず、

遊んだ帰りにはぼんやり外を見ながら静かに揺られるのが心地よいのです。車掌も殆ど回ってきません。

 

ある日、同じくサーシャと別れて終電に乗り込み、上階の真ん中に座ると発車しました。

 

車両には僕だけです。

 

と思ったら何人か上がってきました。外を見ながら窓ガラスに反射しているのが見えます。

 

3人。全員スキンヘッド、鋲を打ったボロボロの革ジャン、チェーン…。

 

 

まずい。

 

 

典型的なネオナチ。全身から汗が吹き出し、頭の中で嵐のように吹きすさぶ思考の中、どうすべきか考えました。

 

ガラスの反射越しに、彼らが僕を見て明らかに気に食わなさそうな顔をして近づいて来るのが見えます。

 

選択肢は、

 

①走って逃げる

 

②眠ったふりをする

 

③大声を出す

 

 

以前、町中で松葉杖をついたネオナチ(よく喧嘩をする)がおそらくはトルコ人を威嚇しているのを見たことがあり、彼が相手が怖がっているのを楽しんでいたように見えた事を思い出しました。

 

①③は相手のアドレナリンが出そうだ。

 

②にしよう…。

 

3人はすぐ手前まで来て、おい、どうする、と言ったことをつぶやいているようです。

 

僕は気だるくぼんやり窓の外を見て半寝状態を装っていました。心臓がバクバクしてその音がうるさくて相手に聞こえるんじゃないかと思いながら。

 

 

3人は交互に顔を見合わせたあと、しばらくして下の階に戻っていきました。

 

やり過ごしたのがわかって力を抜くと、汗が大量に吹き出してきました。

インナーを絞ったら水滴がこぼれそうです。口がカラカラで、ガラスに映った顔がまっさお。

 

 

後で考えてもちょっと軽率だったかなと思います。

相手が酔っ払ったりテンションが上っていたりでもしていたら絡まれた可能性は高かったでしょう。

 

耳か指か歯か、どれか一つはなくなっていたかもしれない。

東ドイツでは、統一後の失業増加と生活の改善がなかなか実現しないことから、

憎悪が外国人に向けられネオナチが台頭してきていました。

 

町中ではあまり見ないのですが、郊外のバーなどでたむろしていたりする話は聞きました。

 

ドイツの教育システムにも問題があるとも聞きました。

教育は基本無料、学校は午前中だけで一見よさそうなのですが、

できるできないの差が極端でグルントシューレ(基礎学校)が終わる10歳までに、

大学へ行くか職人になるかが概ね決まってしまいます。

 

それが原因でドイツの大人には文盲であったり、簡単な割合や確率の計算ができない人もいます。

 

落ちこぼれるとグレやすいのは日本と同じで、そういった人たちの救済制度もあるのですが、文盲だとそれも使えない。

 

ドイツの社会制度はきっちりしているのですが、もしかしたら箱は立派でも現状に対応できていないのではないかと思います。

 

先進国でEUの経済トップと言われているのに失業率18%というのはちょっとどこかに根本的な問題があるんじゃないかと疑ってしまいます。

 

 

とにかく、今回は無事に切り抜けることができました。しばらくは終電に乗る気にもならず、他の人が乗っている時間帯にはおとなしく寮に帰ることにしました。

寒くなるとイスラムのシャール(襟巻き)、日本でアフガン・ストールと言われるチェック柄の布を巻いている若い子がちらほら見られます。

 

ビンラディンが頭に巻いているもの、と言えばすぐ分かるでしょうか。ざっくり首に巻いてパンクな格好をしているドイツの若者はカッコよく見えます。

 

どこで売っているか聞くと、革ジャンやロック・バンドの柄のTシャツが売っているお店を紹介され、買いに行きました。

 

お店に入るとハードロックが流れ、そういえばドイツと言えばメタル、ジャーマンメタル。スコーピオンズとかそうだったと思い出しました。

 

お店にいる男の子らもハードな格好。反体制の象徴がロックで、911以降、それにテロリストを思い起こすアフガン・ストールがそれに加わった、というわけです。

 

チェ・ゲバラと一緒、アナーキストが好むモチーフです。

 

赤と黒があり、迷わず黒を買って巻いてみると、僕もちょっと社会からはみ出した気分になっていい感じです。

 

 

911以降、早くもアメリカの標的はイラク・イスラムに定めましたが戦争は2年後。

 

それ以前でも何となく世間はイスラムに警戒心を持ってきていましたが、ドイツの報道ではアメリカン・パワーもテロリズム同様、邪悪な存在に位置付けされていました。

 

イスラムの子が周りに多い僕は、アフガンストールを巻いていると喜んで僕を迎えてくれます。

 

「シンはアラブの味方だろ?」

 

「これは何にでも使える布でね、物を包んで運んだり…」

 

といったように、たった一つのアイテムで親近感がここまで得られるのが不思議ですが気分はいいので、どこに行くにもその襟巻きをしていました。

 

 

ある日、語学交換パートナーのアンヤと待ち合わせ、それを巻いていくと明らかに嫌悪しています。

 

美しいブロンドの彼女は普段ニコニコしているのですが、ケバップを食べる人を嫌ったり、当時の首相シュローダー(今の政権よりオープンスタイルだった)を批判したり急にナーバスになる時がありました。

 

彼女は外国人排斥運動に賛同するところがあるのです。

 

でも僕と過ごしてくれるのはなぜか、というと、日本人は無害だから。トルコ人はダメ、ドイツから出ていってほしい。トルコ人と同じイスラマーもあまりいい感情を持っていない。

 

「だからあなたがトルコ・マーケットに行くのもよく思わないし、その襟巻きも」

 

 

彼女の中で人種差別をしている感覚はなさそうでした。ドイツの経済バランスが狂うから、ドイツを守るのに当然のことを言っている、という感じでした。

 

無邪気にドゥカティのバイクに跨る気さくな女の子なのに、イスラム人のこととなると彼女の言葉の端々には鋭さがこもっていきます。

 

「分かった、もうこれは巻かないよ」

 

といって僕はストールを外し、アンヤと会う時は気をつけようと思うのでした。

 

 

ドイツにいると人種の違いや国の対立に日常的に出くわします。

 

モンゴル人のドゥーはロシア語と中国語を話せますが、ロシア人とは話しても中国人とは決して話しません。

 

中国から国境を超えて入植してきているから嫌い、と言います。

 

北キプロス人の生徒達に、別のクラスのあの娘もキプロス人だって、と僕が言っても決して交流をしません。

 

実はその娘は南キプロス人で、北と南は停戦中、北はギリシャ系でバックにイギリス、南はアラブ系のトルコ人で代理戦争をしていて、互いに許せないのです。

 

ロシア人の学生はドイツ語学校で数が多く恐れられています。聞くと地下パーティを仲間内でしていて、それが結構危ない事をしているらしいのです。

 

誘われても絶対に行くなとロシア語の話せるウクライナ人のサーシャに言われていました。

 

サーシャはロシア人生徒と喋りますが決して打ち解けません。ポーランド人生徒とも喋りますがロシア人に対するよりはオープンです。

 

ウクライナとポーランドは言語が似ており、かつカトリックと宗教も同じで、ロシア正教のロシアとは文化的な面で違います。

 

言語や宗教によって伝統的な習慣がかぶると馴染みの装飾や好みが共通したりして、そんな事が親近感の源になっているようです。

 

東京で沖縄の人と奄美大島の人が出会うと親近感が湧く、という感じでしょうか。

 

 

習慣が違うと相手の心情が分からなくなり親身になれないことがあります。

 

僕の先生、ブルース・ファートマンが著作で「相手にとって親切であるためには相手に興味を持つ事が必要だ」と書いています。

 

人って相手に対する興味があれば実は対立しないのですが、そんな簡単な事を人は成すことが難しいのが現状で、もちろん自分自身にもそれがあると思います。

 

アレクサンダー・テクニーク教師のトレーニングでは、知らないものごとに直面し、それが何かと評価する思考に入ったことに気付いたら、何が起こっているんだろう?と興味を持って見る方に切り替える訓練をします。

 

人は知らないものに出会うと、知っているものから推し量ろうとして「評価」してしまいがちですが、それが相手と距離を取ってしまう最初の一歩なのです。

 

距離を取ると、本当の意味で一緒にいることができません。

 

一緒にいてこそ、体験は共有されます。アレクサンダー・レッスンにはそれが必要で、教師には「相手と一緒にいる」能力が必要なのです。

 

 

ぼろぼろになったアフガン・ストールは12年後の結婚、引っ越しを期に捨ててしまいましたが、僕の中では異文化体験メモリアル・アイテムの一つです。

 

 

ドイツのアレクサンダー・レッスン

アレクサンダー・テクニークのレッスンに行ってから、予定していたチェロの先生に連絡し、新しい指導者を紹介してもらうことをためらっていました。

 

僕は当時チェロを弾いていると背中が張ってきて痛くなっていたのですが、アレクサンダー・テクニークのレッスンを受けてそれがなくなっていたからです。

 

またチェロを弾くと張ってくるのかな…?

 

そう思うとチェロを弾くこと自体ちょっと置いておきたくて、まず身体の変化を見てみようと思いました。

 

アレクサンダー教師のヘルムートがセミ・スパインと呼ばれる休息法を教えてくれたので、僕は今までチェロを弾いていた時間を身体を観察する時間に充てました。

 

 

セミ・スパインは仰向けになって両膝を立て、両手をお腹と骨盤の間くらいに置くポーズです。頭はタオルなんかで少しだけ上げます。

 

だらんとするよりちょっと張りがあるような休息で、眠くならないよう4つの観察を順に頭に巡らせていきます。

 

まず、地面についている自分の身体の部分を思い出すこと。

 

次に背骨が長くなっていくこと。

 

そして呼吸を思い出すこと。

 

最後に、頭からつま先までこわばっているところをスキャンして、見つけたらそれを手放すこと。

 

セミ・スパインをしていると、自分のあらゆるところがこわばっているのに気付きます。

 

それを見つけるたびに、しめしめ感を持って手放す。

 

こんなに自分の身体がコントロールされてなかったことも、身体を開放することが心地よいことも知らなかったので、自分にえらくラッキーな事が飛び込んできたものだと思い、それと同時に頭にもたげてきたものがありました。

 

なんで苦しんで楽器にしがみついていたんだっけ?

 

最初は好きとか楽しいとか感じていたのに、いつの間にかこうしたいとかこうなりたいとか、人よりどうなりたいとか誰かのようになりたいとか、ごちゃごちゃしたモノになってしまった。

 

 

もともとがむしゃらにやるタチではなかったのに、いつの間にか自分にブレーキがかからなくなり、身体に起こっていることなんか見向きもしなくなったことが不思議に思えてきます。

 

身体より音楽、それを考える頭を優先し、まるで身体が劣った鈍くさいもので、思考が高尚なものとして扱っていたようです。

 

 

それが今、身体が心地よいことは、否定するところのない完全にいいもの、価値があることを実感しています。

 

このままがむしゃらに楽器を弾くよりも、身体を楽なものにしてあげたほうが可能性がある気がする…。

 

 

 

何より思うのは、アレクサンダー・テクニークを知らなかった頃の身体に戻りたくない。

 

何が起こるかわからない明日が待ち遠しいって、いつ以来だっけ?小学生かな?

 

 

 

そういう思いが湧いてくるので次第にチェロをケースから出さなくなり、毎日ワクワクしながら学校に通い、友人やアンヤと会い、ライプツィヒを見て回る日々を過ごしていました。

教会でのヘルムート先生のレッスンは毎回イスを使って行っていました。

 

後ろに持たれず、まっすぐ座った状態から、坐骨を支点に前傾したりまっすぐに戻ったりします。

 

先生は頭の後ろや頬骨、頭蓋のへりに当たる部分ですが、そこに優しく触れて、分かるか分からないかくらいの力で誘導していきます。

 

誘導と言っても、押されたり引かれたりするものではなく、ニオイがする方へ行ってみようとするように、ささやかな手がかりを頼りに自分で動いていく程度です。

 

もう2ヶ月もレッスンの前半はこの緩いおじぎの繰り返しで、これをやる意図が何か分からないけど、学習者としてなんとなく意図を聞いてはいけない気がしていました。

 

それでこれは精神統一か感覚を鋭くするのか、自分で推測していたのですが、アクションとしては単純な取り組みに次第に飽きてきました…。

 

 

しかしある時、

 

あれ?

 

立ってる。

 

自分が知らないうちに立っています。

 

イスに座って前後に頭を揺らしていただけなのに…。

 

ヘルムートの誘導が、優しいけどちょっとトリッキーな感じになっていっているのには気付いていましたが、立つための踏ん張りをした憶えがないのです。

 

ほこりが風に吹かれるように、舞い上がり、重さを感じずに立っています。

 

頭の重さに導かれて、そこに流れ着いたような。

 

自分の体重がストーンと足まで伝わっているのを感じます。

 

自分が大きくて太い筒になって、その中を上下に柔らかいものが行ったり来たりしている感覚。

 

これが余計なことをやめるための学習…これが日常で起こることになったら、どんなに楽か!

 

僕は19歳くらいから、朝起きる時、体が重くて仕方がなかったのです。

 

砂でも食べて、その重さが体内に残っているかのような…。

 

それは後々、日中の楽器を弾くときの体の捻じれから来る負担だと分かっていきますが、この時点ではまだそれに結びついていません。

 

 

これが自分でできるようになったら、人生思いのまま!

 

ヘルムートは僕の気付きを捉えていたのだと思いますが、そこで説明したり、諭したりすることなく、「そうそう」という感じでただそこにいるのでした。

 

 

その、ただそこにいる、いう感じも自分でしたい!

 

どうしてヘルムートは静かなのにエネルギーを感じたり、柔らかいのにしっかりしているように見えるんだろう?

 

何か技巧的なことをしているようにも見えないし、戦略的な意図も見えない…、よく見せようとか、賢く見せようとか…。

 

なぜ自然に見えるんだろう?

 

自然な人間になるには、どうしたらいいんだろう?

 

 

この頃から、自分の中にアレクサンダー・テクニーク教師になるという選択肢が生まれました。

 

僕が実際に教師になったのは、この日から10年は経ってから。まだまだ先の事です。