​記事

​アレクサンダーテクニークのこと

目次

・頭の事か、体の事か

​・姿勢をよくするのに大事なこと(テキスト

​・悲しみは時間が解決してくれる(テキスト音声

・笑顔はやっぱり(テキスト音声

​・怒りはどうにかできるもの(テキスト

​・馬と会話する(テキスト音声

​・目線をちょろっとこぼす(テキスト

​・これだ!の正体は迷い(テキスト

​・押さないこと、引かないこと(テキスト

​・レディネスが上達するレッスン(テキスト

​・服を着るだけでも違いを感じる(テキスト

頭の事か、体の事か

仕事柄悩みを聴く立場であることが多いのですが、

ふとした時に気付いたのは、

 

悩みはご本人が増幅させることで、

現実として本当に問題になっているということです。

 

本当の問題とは、健康や人間関係の悪化です。

一方、悩みとは本来、本人以外とは関係がありません。

 

悩みは思考活動の問題、

健康や人間関係は身体活動の問題です。

 

 

アタマのことと身体のこと、

ファンタジーとリアルを明確にする。

 

アレクサンダー・テクニークは

このことを整頓するためにあるといっても過言ではありません。

 

 

腰が痛い。仕事で痛めた。

仕事でつらい思いをしていて、

 

その状況はだれか他人によってもたらされている。

その人との関係がうまくいっていない。

 

 

最初に僕とその人が合流した接点は、

その人の「腰痛」です。

 

腰痛をどうにかしてくれという希望で来たのですが、

 

仕事の上司との関係の問題があり、

 

その先に自分の父親との解消しきれていない問題が

隠れていたりします。

 

僕はそういった話を聴き、

結果である痛みを発している身体に尋ねます。

 

 

何を望んでいるのか。

 

身体は、アタマに曳き回されていること

から解放されたいと望んでいます。

 

僕はアレクサンダー・テクニーク教師の

能力でその望みを叶えます。

 

身体がガチガチなら、

ふわっとなりたいって聞こえるから、

その後押しをするのです。

 

 

「エンカレッジ」

 

応援とか、励まし、背中を押す。

 

身体とアタマを

自分自身の領分に戻ってもらうために

必要なことは、それです。

 

僕はそれをリハビリテーションに

持ち込んで、

 

もうすぐ10年経とうとしています。

 

普及させる価値は

大いにあると思っています。

 

姿勢をよくするのに大事なこと

姿勢をよくするにはどうしたらいいですか?

と、よく聞かれます。

 

壁に背中とかかとと頭をくっつけて、

それをキープしなさい!

 

大体の姿勢のみほんは、

そのようにかいてありますね。

 

それを、昨日の夜の太極拳クラスでしたら、

張り詰めて、息苦しいし、全然楽じゃない。

 

 

じゃあその頑張りを手放すと?

楽です。でも姿勢は崩れない?

 

 

骨を頼りにすれば、崩れない。

やってみると簡単にできます。繊細なだけ。

 

 

繊細さと楽さは、同居できます。

張り詰めて楽は、同居できない。

 

草木は繊細ですが、すっと立ってますよね。

あれとおなじ。

 

 

姿勢を正す。見た目を指標に。

それだと苦しいし、キープできない。

 

 

姿勢をなおす、その目的は?

美しさ?快適さ?効率のよさ?

何を目的に、取り組みますか?

 

美しさ以外のものも必要なら、

壁を、正しさを頼りにすると

固さに因われてしまい、実現できません。

 

姿勢には、正しさ以外のガイドが必要なのです。

 

悲しみは時間が解決してくれる

​(読了目安:4分)

絶望した人の依頼を受けたことがあります。

 

夫を水難事故で亡くしたばかりの人でした。

 

僕はその時、ここまで打ちひしがれた人に対して仕事をするのは初めてでした。

 

眠れず、夜明けに後追い自殺を考えると。

引きこもり、身体がガチガチなのでそれだけでもどうにかしてほしいと。

 

 

その人は僕のところに通って3年、

やがて郊外の家で畑をして過ごすようになりました。

 

現在レッスンを卒業して

5年ほど経ち、今はどうしているか

分かりませんが、

音沙汰が無いのでおそらく大丈夫なのだと思います。

 

 

レッスンの初め頃、

僕は「こんな責任の伴う仕事を自分がしていいのだろうか?」と

内心思っていました。

 

その方はすでに心療内科にも通っていて、

精神薬でガッチリ身を固めながら何とかしていたのです。

 

レッスンが進むに連れ、

その方から「薬を減らせそうな気がする」

「抗うつ剤をやめてみてもいいか」

と言われ、

 

医者に相談して

徐々に減薬し、レッスンの最後には

睡眠導入剤をごく少量だけ、

という状態までになりました。

 

 

レッスンの終わりは、

僕がレッスン・スタジオを

引っ越した事がきっかけでした。

 

新しいスタジオには現れませんでした。

 

きっと「もう大丈夫だ」と本人が思ったのだと思います。

僕はあえて連絡しませんでした。

 

 

 

この一件があって、

僕は2つのことを確信しました。

 

ひとつは、悲しみは時間がなんとかしてくれる、

というのは本当だということ。

 

もうひとつは、人と一緒に過ごす技術というものがあって、

勘だけでなく勉強すべきだということ。

 

 

幸い、このケースはよい方向で終わりましたが、

責任の取れないことも起こり得たかもしれない。

 

自分の勘でやってきましたが、それだけに頼るのは危ない。

 

それでカウンセリングの勉強を始めました。

 

 

日本産業カウンセラー協会というところで、

ロジャースの来談者中心療法(パーソンセンタード・セラピー)を中心に学びましたが、

先程のケースを経てのことでしたから、

気づくことがいっぱいありました。

 

結局7ヶ月かけてそこの資格を取りましたが、

今も時間があれば勉強を続けています。

 

 

 

悲しみに打ちひしがれた人とどう過ごしたらよいか?

 

その答えはいまだに分かりませんが、

僕なりに理解したのは、

 

如何にして一緒にいることができるか?

 

にかかっていることです。

 

アドバイスでもダメだし、

励ましでもダメ、

一時(いっとき)楽しませても

次には谷が来る。

 

かといって一緒に落ち込んでもこちらが考え込んでも何もならないし、

一緒にいる側の負担になってしまいます。

その如何にしてそこにいるか、

僕はここにアレクサンダー・テクニークを学んだアドバンテージを持ってくることに気づきました。

気付いたときに、いつでも身体が楽になれるということ。

 

あとは、時間が解決してくれる、

それを信じるのみ。

 

永久に続く悲しみはない。

 

これが本当なら、いつだって救いも可能性も感じられる、

と思いながら仕事に励んでいます。

 

笑顔はやっぱり

​(読了目安:2分)

ずっと以前のことですが、

肩こりがひどくてとうとう首が回らなくなったとのことで

来られた女性がいました。

 

 

困っていると言いながら終始笑顔、

というか口角が上がったままなのです。

 

 

お仕事は…と尋ねるとデパート案内の

かなり上の立場であると。

 

 

作り笑顔の職業癖から、肩こり、ストレートネックと進んだようです。

 

 

治療台に仰向けになって、泣きそうになりながらも口角は上がる…

緩めようとしても頬が震えてしまいうまくできません。

 

 

作り笑顔では、舌がまず緩むことはありません。

 

 

舌は小さな筋肉の集まりで、

拮抗して固定に回るのは首の後ろの筋肉。

 

 

それとアゴの筋肉です。

 

 

僕と共同研究していた歯医者さんによると、

口角を上げ続けるとベロが緊張し下顎を後ろに引き上げ、

ストレートネックを助長するそうです。

 

 

ヘルメットのあごひもをぐっと絞っているようなものですね。

 

 

馬だとストップをかけられたままの状態…。

 

 

また、その女性は接遇指導をする立場でもあったようで、

自ら姿勢を正していたのでしょう。

 

 

首のみならず、からだの後ろは上から下までカンカンに張っています。

 

 

仰向けでアレクサンダー・ワークを受けながら、

恐る恐るですが作り笑顔が取れていくと、ポロポロと涙が…。

 

 

それから数回後には、肩と首が楽になったと言いながら、

笑顔のオン・オフができるようになってきて、ナチュラルな魅力ある笑い方をされ、

あるとき予約時間になっても現れませんでした。

 

 

卒業かな?僕のレッスンは、ある時唐突に「来なくなって」終わることもしばしばです。

 

 

それもよし。最後の言葉を交わすのとはまた別の感慨深さがありますから。

 

 

笑顔はやっぱり、自然が一番。

 

怒りはどうにかできるもの

 

僕は以前、一度怒られた人が何年経ってもずっと苦手になってしまうくらい、

怒りは延々と続くものだと思っていました。

 

それが、人の悩みを聞いているうちに、そうでもないことに気付きました。

 

怒りはエネルギーが沢山必要なので、

あっという間に消費されてしまうのです。

 

それに、すぐに極端に怒りを表現する人ほど憶えていない。

 

ほとんどのケースで怒った方はすっかり忘れて、

怒られた方ばかりが延々とその受けた怒りからの不利益を持ち続けてしまいます。

 

 

怒られ役からすると簡単に怒る方が随分身勝手でお気楽なものですが、

どうもこの世はそういうものらしいのです。

 

怒られたことで奮起したり見直したり、前進することに使うか、

お荷物なだけなのをしょい続けるかそれともその荷物を降ろすのか、

選択肢があるかないかで随分違います。

 

 

選択肢がないかあるか。

これが気持ちの問題だけだったら簡単なことですけど、

実際はそうはいかない。なぜか?

 

感情は身体のリアクションですから、

身体が背負った荷物も降ろす必要がある。

 

それが必要か不要かで、

カウンセリングだけでよいのかアレクサンダー・テクニークが必要かが分かれるところです。

 

身体のリアクションに選択肢を持たせるには、トレーニングが必要な場合があるのですが、

自分にない選択肢を自分自身で開拓するのは結構やっかいなことです。

 

自分にないのですから。

 

だからアレクサンダー・テクニーク教師という職業があって、

カウンセリングの隣にある選択肢にもなり得るのです。

 

教師がいるアドバンテージは思いのほか大きいですよ!

馬と会話する

​(読了目安:2分)

僕のリハビリはマッサージもストレッチも筋トレもありませんが、可能性がある人は状態が次第に良くなっていきます。

 

僕は思考を超えて筋肉と交渉している感じがあります。

 

筋肉には野生が宿っているのが分かります。

 

というより、人に眠る野生を筋肉から知ることができます。

 

筋肉にしか表現が許されていないから、コミュニケーションはそこから、という感じです。

 

一切喋ることができなくなったとしても、内面を感じ取ることができます(その内容まではわかりませんが…)。

 

 

こんな話に何じゃそりゃ?てなる人は多いでしょうから、引き合いに乗馬を出しましょう。

 

 

僕は長野に行って馬で公道を走りました。

 

4日のレッスンの間で、ある馬とはウマがあったから、それができました。

 

言葉によるやり取りはできないので、相手とは動きで互いの存在を受け入れました。

 

筋肉で交渉したようなものです。

 

ある提案に対して拒絶するものもあれば、試してみたり、好んでしてくれることがあったり。

 

それらは思考を超えて、動きで互いを知るという体験でした。

 

 

これは僕が特別な能力を持っているわけではなく、犬を引くリードによってその子の機嫌が分かったりするのと同じです。

 

誰でも動きから相手の野生を知ることはできると思います。

 

僕はそれをリハビリにも太極拳の指導にも応用しています。

 

 

最近はその使い方を教えることもできるようになってきています。

 

これらを中継してくれているのが「アレクサンダー・テクニーク」なのです。

 

別に奥深くありません。取り組んでいるのは自然なことです。

 

頭が、ややこしくしているだけです。

 
 

​目線をちょろっとこぼす

​(読了目安:2分)

 

人にとっての正面はどの方向か。

 

左右は分かりやすいのでいいのですが、上下は曖昧ですね。

 

だから前を見て、正面を向いてと言っても、ある人はアゴを突き出したり、ある人は喉まで引っ込めたりしてまちまちの結果になります。

 

正面ってどこかな?どのレベルかな?と思って考えると、レベルって元々水位を指すので、水平線や地平線を基準に考えたくなります。

 

でも動物として、水平線や地平線に用があるかというと、あまりない気がします。

 

やっぱり、地上にいる獲物や、敵を確認するために物を見る。

 

それは水平線よりも少し下の方を向いています。

 

 

僕のアレクサンダー・テクニークの先生、ブルース・ファートマンもこの目線のレベルについて度々言及していました。

 

自分が水瓶だと思って、いっぱいに満たされた水を、前方に水瓶をちょっと傾けることでちょろっと水をこぼす。

 

そんな目線を求めていました。

 

その目線のとり方は、太極拳の立ち姿勢にピッタリな具合です。

 

アゴが出ず、またアゴを引くこともなしに、背骨の上に頭をふわっと乗せる。

 

目線をちょろっと前にこぼす、は僕のお気に入りのディレクション(方向づけ)です。

 

これだ!の正体は迷い

資格やメダル、目に見える成果って飾っておきたくなるのが人情。

 

成果は見方を変えれば執着です。

 

執着って本能かな?て思ってましたが、僕の子供を見ていて、違うな、と思うようになりました。

 

うちのある一つの木箱には折り紙から紙で作った造形物でいっぱいになっています。

 

6歳の子供に「作ったものはここに入れること」としている箱なんですが、作ったときの達成感と見合わないくらい見返したりしません。

 

それを見ていると人は本来物事に執着しないのが素(す)ではないかと思います。

 

 

一方、大人はベストなものを保存したがります。

 

それを狙って発達したのがインスタでしょうけど、もう欲望のるつぼみたいになってますね…。

 

執着です。その瞬間は「これだ!」。

 

実は迷いがあるのにそれに捉えられるのが苦しくてそうするのだと思います。

 

武道武術では「これだ!」の後には必ず「あれ?」が来ます。

 

 

武道武術までしなくても、例えば姿勢。

 

姿勢ってみんな正しいところでキープしたいので、まずピーク・パフォーマンスを知りたがります。

 

正しさを求める。そしてそれに執着してしまう。

 

 

 

この欲求が本能から来ているか?

 

違うと思います。

 

この思考は幼い子供にありませんから。

 

捨てられる思考です。

 

 

 

正しいところでキープ!

 

まずそれを捨ててみませんか?

 

押さないこと、引かないこと

アレクサンダー・テクニークの教師になるトレーニングには幾つかの重要課題があります。

 

そのうちの一つに「リーディング・フォローイング」というのがあります。

 

指導するとき、リードすることとついて行くことを同時にやる。

 

 

また、僕の師匠ブルース・ファートマンは理想の教育者のスタンスを、

 

「後ろから、囁き声で勇気づける」ように、

 

と、著書で言い表しています。

 

 

生徒の前から引っ張って先導するでもなし、後ろから背中をぐいぐい押していくでもなし。

 

つまりそれはリーディング・フォローイングのことなのです。

 

 

あなたが今までの学校や習い事での経験を思い出してみてください。

 

あなたにとって教師とは、どのような存在でしたか?

 

多くは一方的に教訓を繰り出しませんでしたか?

 

 

ブルース先生がトレーニング・コースを作ったとき、「自分がこうであってほしかった学校」にしようと思ったと言っていました。

 

それは、宿題がなかったり、競争や比較がなかったり、偉そうな先生がいなかったりといったことなのですが、実際にそれをどうやって実現させたらよいか?

 

 

僕は今、リハビリの「先生」で、太極拳の「先生」が主な仕事なのですが、上に書いたことを実現させようとしたら、リーディング・フォローイングにたどり着くのです。

 

人ととして高尚な人間を目指したとしても、自分にも他人にも教訓を繰り出すしかないし、それってリードが基本ですよね。

 

相手はフォローするしかないのです。先生が生徒を引き回しているとも言える。

 

 

先生が引き回さなければ、生徒は自由に学ぶ。

 

アレクサンダー・テクニークはあなた自身があなたに対する束縛から自由になるための学習法であり、教訓でがんじがらめにするためにあるわけではありません。

 

ネット情報で知るだけでは分かりませんから、一度訪ねてみてくださいね!

 

レディネスが上達するレッスン​

アレクサンダー・テクニークのレッスンに来られる方は、何か望みや目的があって僕のところに来ます。

 

その望みや目的がはっきりしないで問い合わせをされる方もおられます。漠然と、ただ気になる、何となく自分の興味や問題と関係があるような気がする、そう言われます。

 

20年前の僕も目的ははっきりしていませんでした。短期間に3人がアレクサンダー・テクニークと言ったので、気になって、そこからです。

 

それが何か分かっててコミットしたわけではなかったので、レッスン料は対価ではなかった。

 

チェロのレッスン料を削って、アレクサンダー・レッスンに投資したという事実だけが残っています。

 

その時は、そうすることが必要だと思ってそうしました。

 

楽器を毎日何時間も弾いている時、楽しくてそうしている感覚は薄れていき、不安に突き動かされていました。

 

そうしないと、何かに遅れを取るとか、間に合わないとか、どこかから弾かれるとかいった焦燥感の中にいたような気がします。

 

ただ、振り返ってみるとそう思うだけで、その時は目の前のことに熱心なだけで自分では分かりません。

 

僕がどうであれ、世界の誰もそんなことは大して気にも留めないのですが、僕はとにかくどう評価されるかが気になってそうしていました。

 

好きなことをしていただけなのに、どこからそうすり替わったのか。自分の興味が、他人の評価になってしまっていた…好きなことをしていただけだったつもりなのに。

 

 

昔、ニキビを気に病んで自殺した高校生が報道されたことがあります。その頃は、バカじゃないか、死ぬことじゃあるまいに、と思いました。

 

誰にとっても気に留めないことでも、世界のすべてと関わりがあるように思える、そう人が陥る事って結構あって、後に理学療法士になったときにうつ傾向の人たちを沢山担当するようになり、よくその事を思い出します。

 

僕はニキビで病んでいたように、自殺まではしなかったのですが、チェロを弾くことに固執して身体を奴隷のように扱っていた。方向性は似たようなものです。

 

だから自分でそうだったと思える今、あらゆる人の悩みと一緒にいられるのだと思います。

 

その悩みが虐待であろうが高血圧であろうが。

 

 

どの悩みも大したことないと言いたいわけではなく、そこから別のところに移る選択肢がもたらされると、世界がひっくり返るように救われる可能性がある、と言いたいのです。

 

ドイツの生活のことを日々書いてきていますが、アレクサンダー・テクニークに関係あることも無いことも今の自分をつくっていて、些細なことも自分の信念の本流に流れ込んでいます。

 

 

現在、自分の身辺がひっくり返って怒涛の変化の中にいて、手がかりがない状態で自分のバランスを取らなくてはならないのですが、そうしていると正しさに固執することも他人からよく評価されるかも、そんなに大切ではない事が分かります。

 

僕にとってアレクサンダー・テクニークも些細なことで、元々惹かれてきた無形のなにかが自分の中にあって、色々な表現がそれを代弁しているに過ぎない。

 

夢や希望が実現される目標って、元々まぼろしなんでしょう。それが分かっていても明日は来る。

 

アレクサンダー・テクニークのレッスンの意義って、まぼろしのようにはかないところがあるんですが、それでも明日の準備には役立つものなんです。

 

せめて自分の身体を奴隷のように扱わない、それだけは確実に進展します。

 

そして明日は何が起こるか分からない。それも確実なことです。

 

確実に起こることに確実にできること。

 

アレクサンダー・テクニークは、レディネス(いつでもどう反応するか準備できている)が上手になり、それで身体に負担を与えなくなる、そんな学習だとも言えるのです。

 

服を着るだけでも違いを感じる

アレクサンダー・テクニークを始めた頃、20年前ドイツ渡航のときのお話を続けていますが、その頃の自分の身体と今はどう違うのか、体感していることがあります。

 

自分で感じていることを他人に伝えられるかどうか、とっても難しいといつも思っているのですが、ネット社会は言わないと「ないも同然」なので、度々挑戦しています。

 

今回はそのことについて。

 

 

僕は20歳前半の頃と今の身体、どちらがいいかというと今のほうが断然好きです。

 

発達学的には20代前半はパフォーマンス・ピークなのですが、倍年を取った今のほうが身のこなしが軽く、疲れにくく、身体に痛みがあることが少ないです。

 

早く眠くなったり、諦めるのが早かったりと年を重ねたなりの変化もありますが、それよりも動作一つ一つの事が全然違う質で行われているのを感じます。

 

それは服を着る時や、電灯のスイッチに手を伸ばしたり、ドアを開けるときによく感じることで、関節がくるくる動いたり、腕に身体が引っ張り込まれていかなかったり、骨が自分を支えてくれるように思います。

 

周りの物と調和している、自然界の原理に従っているような感じ。水中で水がビリヤードをしているというか、押されたら押されただけ動き、水に抵抗されただけ動きが止まる。

 

手に関して特に、自分で動かしたり止めている感じではないのです。自分以外のものがそれをしているような。

 

服を着るときの胸の広がりや、腕が中を舞う感覚が心地よい。なにかする度に、何かに後押しされている、サポートされているのを感じます。

 

アレクサンダー・テクニークと同時に太極拳もやってきたので、どちらの効果なのか分かりませんが、とにかく軽さと同時に地に足がついている、軽さと重さという相反するものにサポートされ、背中を押されている気がする。

 

進むときに追い風が吹き、目の前で信号が青に変わる…世界のあらゆるものが自分の味方についてくれている。心強いものです。手が震える理由がなくなります。

 

なぜ教師になって活動しているのか。答えはコレでしょうね。いいものは知ってほしくなるし、分けたくなる。

 

子供はそんな動機で行動します。子供っぽい動機で動く人は好きです。周りにそんな人が集まってきているので、今の状況も好きです。

 

一緒に大人の皮を被った子供でいましょうね。